2013年7月8日月曜日

ひそやかに15周年

 最近はネットに出没する頻度もブログよりはTwitterの方が圧倒的に多くなってしまい、こちらの更新もやや滞ってしまっておりました。そんな中訪れた7月7日。この雑記帳のオープン記念日です。今年は更新頻度が少ないこともあり、これまで以上にひそやかな感じで記念日を迎えることになりました。

 Twitterというのは確かに便利なサービスで、日常の中で感じたその瞬間単位の思考をパッと投稿できて記録できるというのはブログとはまた違った指向のツールだなと感じています。散文的、あるいは短歌的とでもいいましょうか。連続してまとまった思考を表現するには足りないが、思考がまとまっていく過程、あるいは思考にまで辿り着かないただの雑感を記録・表出していくツールなのだと感じます。

 かつてはこの雑記帳にもそういう「過程」の記録の意味も含ませていました。大学時代などは日々の記録、過程も含めた記録として、生の思考をここで書き遺していました。でも今はそういった瞬間的な思いを書きつづるのはTwitterに移行して、この雑記帳ではよりまとまった、140文字×いくつかの範囲では収まりきらないまとまった思考・文章を残す場として使っていきたいなと考えております。だから、更新頻度は少なくなるでしょう。でもより練った形の思考や文章、あるいは交流も多くなってきたTwitterではちょっと書きにくいような意見なんかを、こちらで出していければいいかなと思っています。ひとりごとのはずのTwitterで交流が盛んになり、情報発信のはずのブログがひとりごとみたいになるとは皮肉なものだなとは思うのですが。

 ともあれ、ひそやかにこの雑記帳も15周年。訪れてくださる方々への感謝とともに、今後もこの雑記帳は静かに歩み続けたいと思います。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

2013年1月31日木曜日

桜宮高校処遇に思う

 大阪の桜宮高校でバスケ部の主将が顧問の継続的な体罰が原因で自殺した事件。非常に痛ましい出来事で、これだけでも思うところはあるのだが、さらに橋下市長の対応を巡って賛否両論、色々な意見が交わされている。ここではそうした詳細な経緯や状況分析、合理的な判断といったものは一旦置いておいて、残された体育科の在校生達について、情緒的な感情論を少しだけ、書いてみたいと思う。

 桜宮高校の体育科は全国大会を目指す強豪チームが多いと聞く。今回問題となったバスケ部もそうだとのこと。もちろん、全国大会を目指して桜宮高校に入学する生徒も多いだろう。その彼・彼女らが、今回の一件で部活動の無期限(現時点では解禁が見えないという意味で)停止を余儀なくされている。厳しい状況にさらされている教師や保護者もそうだが、一番もやもやとした気持ちを抱えているのは体育科の在校生達ではないだろうか。特に現二年生、来春に三年生になる生徒達の心中は、混乱や怒り、悲しみ等で暗澹たるものではないかと察する。

 現状や背景はともあれ、彼・彼女らは三年間を部活に捧げるつもりで頑張ってきた。二年生はこれまでの約二年ずっと。自分達の上の三年生が引退したことでやっとレギュラーの座をつかんだりベンチ入りしたりして、最後の大会を心待ちにしていた人も多いだろう。それが突然、ある日を境に、思ってもみない形で世間の注目にさらされ、部活も活動停止となり、最後の大会に出場できる目途も立たずにいるわけだ。単純に大会にかける気持ちだけでも混乱を来たすだろうし、体育での推薦で大学進学を狙っていた生徒などは最後の大会に出場できないことが自身の進路・将来にまで影響しかねない。その不安は、如何ばかりのものだろうか。

 桜宮高校の在校生への処遇は、第二次世界大戦後にナチスの片棒を担いだとして音楽活動の停止を余儀なくさせられたフルトヴェングラーを思わせる。あるいは、一夜にしてそれまでの価値観が崩壊したという点では終戦当時の日本の子供達の状況にも近いかもしれない。塩野七生『サイレント・マイノリティ』では、当時の子供達の状況が端的にこう書かれている。

終戦を境にして、一夜のうちに権威は崩壊し、昨日までの威張り腐っていた人々はオロオロすることしか知らず、教科書は墨で塗りつぶされ、そして、何にも増して苦しまされたあの飢餓感。

 というわけだ。ある事件をきっかけに、これまでの指導は、環境は間違っていたと全否定され(教科書に墨を塗られ)、行き場を無くした目的意識やモチベーションは精神的な飢餓をもたらす。このある"点"を境とした劇的な価値観の転換という点で、桜宮高校の在校生達は非常にラディカルな状況にさらされていると感じる。

 ただ、フルトヴェングラーは1947年には再びベルリンフィルの指揮台の上に立つことができたし、戦後の子供達も、ある"点"を境とした価値観の大転換に戸惑いつつも、その後の人生を再構築する時間はあった。ただ、高校生たちはどうだろうか?現在高校二年生、新三年生となる生徒達の時間は二度と帰って来ない。

 大人の立場からすれば"一年のガマン"かもしれないが、在校生の立場からすればその一年は人生の中でポッカリと抜けた、失われた一年となる。高校生という多感で、文字通り二度と帰って来ない時間環境の中で、その一年の大きさは計り知れない。その一年を、奪ってもいいのかという気持ちになる。確かにその後の人生を長い期間で見れば、この転換点を乗り越え人生を再構築する時間は彼・彼女らにもあるだろう。だが、例えば"最後の大会に出られなかった"という思いは、その後の人生に一つの欠落をもたらすに違いない。二度と帰って来ない時間の欠落として。それが例えば、今回の決定を下した公的権力への、あるいはその他の形での、歪んだルサンチマンとして彼・彼女らの人生の中に沈み込んでいったりはしないか。その点がとても気になる。

 もちろん、ここに書いてきたのは細かい状況分析や合理的判断を差し控えた至極情緒的で、感情的な語りだ。書きながら、でも「現状を冷静に考えるとこうするよなぁ」という点で、今叫ばれている入試中止や、部活動の自粛等の措置は全面的に間違いだとも思えない。状況を分析し、考えればこの文章とは別の帰結に自分も辿り着くと思う。ただせめて、これは上述したようなひどく情緒的な理由からだが、生徒達の自主性による部活動は解禁してあげたらどうか。如何な問題があったとはいえ、人生の一部、それも二度とやり直すことができない高校生活の一年を奪うという罰は、連帯責任という形で負わせるにはあまりに重すぎる。大人の一年であれば、まだ多少なりともやり直しは効くだろうけれど。

 そして最後に、これはここでは軽く触れるだけにとどめるが、仮に体制改革や罰則強化、監視等で体罰が目に見えてなくなったとしても、それだけではこの問題は終わらないだろうことにも留意しておきたい。今回問題となったのは表面化して目に見えた体罰であるが、真に問題なのは体罰という形で暴力が噴出せざるを得なかった人間関係・精神構造の方にある。それは例えば先生もOBも保護者も「強くなるために体罰を容認する」といったような体質の問題とはまた違った、関係性であり集団としての精神構造の問題だ。そちらを変えなければ、どんなに物理的な体制や規則が変わっても、結局体罰に代わる"暴力的な何か"が、また違った形で、より見えにくい形で、現れてくるだけだと思う。それに関しては、またいつか。

 願わくば、桜宮高校の在校生達の失われる時間と人生が、できるだけ小さくすみますよう・・・。

2012年12月30日日曜日

記号にできないお金たち

 先日、実家から一つの小さな箱が見つかった。その中には、自分がかつてもらったお年玉なんかが、もらった袋のままで貯金されていて、両おじいちゃんやおじさんなんかが自分の名前を宛名に書いた自筆の文字は、それだけで懐かしい気分になった。一つ、「絶対使わないお金」などとわざわざ封筒に書いてあるものもあった。小さい頃の自分が書いた文字だろう。そう書くことで貯金の意思を固めていたのだろうか。紙幣から硬貨までごちゃごちゃ混ざった中には、聖徳太子の一万円札や、伊藤博文の千円札もあって、随分小さい頃から貯めていたんだなと、昔の自分に感心した。

 それでもそうした旧紙幣を合わせても、金額的には数万円程度。今の感覚でいうとそうべらぼうに大きい金額ではない(もちろん思いがけずその金額が手に入れば純粋に嬉しいけれど)。旧紙幣はもう珍しいから、現行紙幣に両替などはせずにそのまま取っておくとして、現行紙幣でも一万五千円。これはちょっとどうするか迷った。

 例えば臨時収入として何かを買うこともできる。もちろん銀行の貯蓄用の口座に入れてもいい。何年前の紙幣かはわからないけれど、現行の紙幣だ。今すぐ問題なく使える。でも、ちょっと考えて、結局その現行の紙幣もそのまままた箱に戻して、一緒にタンスに眠らせて置くことにした。この福澤諭吉の一万円札一枚と、新渡戸稲造の五千円札一枚。昔の自分が、当時としては一万五千円なんてとても大きな金額だったろうに、それを使うのをガマンして、いつかの何かのためにと貯金しておいたお金だ。今はもう新しく書かれた文字を見ることができなくなった、祖父達の手書きの文字が書かれた封筒に入れて。そこには、金額以上の何かがあるように感じた。

 銀行に入れてしまえば一万五千円はただの一万五千円。ただの数字となり、記号となる。そして小さい頃の自分が意を決して貯金していたお金とは気付かずに、何かの機会に消費されてしまうだろう。でも、手元にある紙幣は、ただの記号としての一万五千円ではなく、あくまで小さい頃の自分が箱にしまったままの、まるでタイムカプセルのようにやってきた一万五千円だ。何に使おうと思っていたのだろうか?それとも、特に使い道は決めずにただ貯金をしていたのだろうか?ともあれ、このお金を使う時は、何か当時の自分を納得させられるような理由が必要だと感じた。だから、その時まで、また眠らせておくことにした。どんな理由なら納得するかな?今なら一番は子供のために、なんて思うけど、当時の自分は間違いなくそんなこと考えてなかったろうしな。何しろ、自分が子供だったのだから(笑)。自分の好きなものでも買うか?それったってなぁ…。

 思いがけず時を超えてやってきた、タイムカプセルのような紙幣達。お金はお金として、小さかったころの自分に感謝しながら受け取りつつ、それは単純に記号としてのお金として使う気分になれず、結局またタイムカプセルのように眠っていく。このお金は、いつか使う日が来るのだろうか?来るとしたら、どんな理由で?願わくば、使ってしまいたいワクワクをグッとこらえて箱にしまった、あの日の自分を納得できるような使い方をしたい。寂しくなるような、使い方でなく。

2012年11月26日月曜日

たむらぱん 全国ツアー@新潟LOTS 2012

かねてより楽しみにしていた新潟LOTSでのたむらぱんのライヴ、行ってまいりました。今回は先行予約でチケットを取ったら、発券してビックリまさかの整理番号1番!これは最前列でたむらぺんを振り回す等の派手なパフォーマンスをしなければならないのかと若干変なプレッシャーを感じつつ、当日を楽しみに待っておりました。開場時は整理番号を呼ばれて、当然ながら1番で会場入り。中に入った途端、本来オールスタンディングの箱である新潟LOTSにイスが並べてあるのにびっくりしましたが、整理番号1番のメリットを最大限に活かして無事最前列センターモニター横の席を確保いたしました。でもイスがあるのもいいですね。今回は一人で行ったのですが、一人でも一度席を確保してしまえばそこに張り付いている必要がない。おかげでグッズも買いに行けました。SEはBeatles。『A Day in the Life』などを聴きながらテンションを上げてスタートを待ちます。

 とりあえず当日のセットリストは大体以下の通り。ちょっとテンション上げすぎて、途中記憶はやや曖昧です(苦笑)。『でんわ』と『知らない』が反対だったかもしれないなー…、とか。訂正ありましたらご指摘ください。

1. ヘニョリータ
2. スポンジ
3. ジェットコースター
4. ふれる
5. はだし
6. ラフ
7. ゼロ
8. 十人十色
9. ぼくの
10. でもない
11. new world
12. ハイガール
13. でんわ
14. 知らない
15. おしごと
16. 直球

~アンコール~

17. バンブー
18. 責めないデイ
19. S.O.S

 例によって当日の驚きを楽しみに、セットリストは事前に確認はしていなかったのですが、当日聴いていてもちょっと意外性があったのが今回のセットリスト。バンドメンバーとたむらぱんが入場してきて、一曲目は何だと待ち構えていると、なかなかまさかの『ヘニョリータ』。『new world』か、もしかしたら『ハイガール』辺りかなと思っていたのですが。この如何にもたむらぱんらしい、キュートでポップにくるくると跳ね回る『ヘニョリータ』から、快調にライヴは幕を開けます。そしてそこから2曲目はさらにまさかの『スポンジ』。このタイミングで『ナクナイ』からの選曲があるとは思ってませんでした。しかも『スポンジ』。前回の新潟公演では「新潟の皆さん、こんばんはー!」みたいな挨拶をしていたら入りを間違えて焦っていたたむらぱん。今回は大丈夫、バッチリ入れてました(笑)。ま、リベンジってわけでもないんでしょうけど。そして次は『ジェットコースター』と、以前のアルバムからの選曲を出だしから立て続けに行う、しかも後半に出てくるイメージのある『ジェットコースター』を序盤に持ってくる辺り、一体これからどんな選曲になるのかと、非常にドキドキするセトリでした。

 『ジェットコースター』の後、MCをはさんでようやくニューアルバム『wordwide』より『ふれる』。実はこの曲、好きなんです。あのアルバムの中でも比較的インパクトは小さい曲ですが、あのサビの透明感のある旋律と"♪哀しみは通り雨~"という歌詞がとてもマッチしていて、何というか清々しい哀愁を感じてしまうのです。ちょっとJUDY AND MARYの『クラシック』も彷彿とさせるような。このライヴでもよかったですね~。"♪夕日が世界に寄り添いながら美しく照れる~"でバックライトがたむらぱんを照らしたシーンで思わずグッときてしまいました。

 その後も『はだし』に続いてMCをはさみながら『ラフ』『ゼロ』『十人十色』と、新曲よりも定番曲が並びます。前回の新潟ではアンコールラストの曲だった『十人十色』、今回もサイケデリックに音が飽和するトリップ感満載の演奏。最後ピアノの鬼気迫る乱打は、サウンドはもちろん見た目にも凄まじい迫力がありました。『十人十色』、ライヴで聴くとCDよりもずっと映える曲です。こういう曲を聴くとバンドの実力がわかりますね。物凄くレベルが高い。バックバンドとして、背景として扱ってしまうのは失礼な実力派揃いです。特にドラムの能村亮平さんとピアノの横山裕章さん。実際かなり時間を取ってメンバー紹介することからしてみても、たむらぱんもバックというよりは全体で一つのバンド、グループのように感じてるのではないでしょうか。実力もグルーヴ・一体感もバッチリのたむらぱんバンドです。

 『十人十色』で新潟LOTSを飽和させた後は、「ここからはちょっとゆっくり聴いてもらいたい」とイスに座ることをうながすたむらぱん。ここで歌われたのが『ぼくの』です。彼女いわく、歌詞に出てくる人間の関係性、距離感が凄く近しいものが多かった『wordwide』というアルバム。自分はその傾向は『mitaina』の時から感じておりましたが、その人と人の距離の近さ、あるいは距離そのものを痛切に歌い上げた象徴的な曲、それが『ぼくの』だったと思います。CDで聴いても言葉と歌が胸に文字通り突き刺さるようなとても力のある曲でしたが、ライヴで座ってじっくりと聴くこの曲は、また歌が、言葉が、突き抜けるように響いてとても心が揺らされました。この曲は、凄い。心に突き刺さる微かな痛みとともに、聴いていて歌の世界に引き込まれる。生で聴くことでこの曲の、彼女の歌の、凄さが改めて実感されました。

 引き続き座ったままの状態で次に演奏されたのが、CDではShing02とコラボしていた『でもない』。CDではラップが入って、全体的にマイナー調の冷たい響きとエコー多めのアメリカンなサウンドメイクがされていたこの曲ですが、今回はライヴバージョンということでラップなし、アレンジも全部変えて演奏されました。またこれが、よかったのです。ピアノとエレアコの弾き語りから入り、CDとは違ってメジャーコード主体の暖かい響きで歌われる『でもない』。全体として冷たい印象のCDでのアレンジとは全く異なり、ほんのり明るく暖かく、しみじみと歌われるこの曲は実に素晴らしかったです。そして聴いているといつの間にかメジャーコード主体の進行が並行短調に移動している、いつものたむらぱん節。アルバムでの音作りは全面的にShing02に委任されていたとのことですので、こちらの方が元々たむらぱんの頭の中で鳴っていた音なのかなとも思ったり。暖かな夕暮れを思わせるようなしみじみとしたアレンジに変えられた、実に素晴らしい音楽。このバージョンの『でもない』も何かの機会にCDに入れてほしいところです。

 そして次からは再び立ち上がって、エンディングに向けて一直線。『new world』、『ハイガール』といったイケイケの曲達が盛り上げてくれます。『知らない』はCDを聴いた際、「サビのバックのギターは全部タッピングで弾いてるのかな?」と思っていたのですが、ライヴで見てみたら間違いない。全部タッピングで弾いておられました。合ってた合ってた(笑)。ラストはアルバム『wordwide』でも強烈な変態曲2曲で飾られます。『お仕事』では気持ちテンポ早め、メンバー全員参加のコーラスと音の洪水で、最後の方は新潟LOTSの箱が音で飽和状態。グワングワン鳴るたくさんの音で、たむらぱんの歌も聞こえにくいくらいの大迫力サウンドでした。新潟LOTSはそれほど大きい箱ではないですが、それでも普通にバンドが演奏してるくらいじゃあそこまで音が飽和したりしないんですけど。やっぱ音数が尋常じゃなく多かったんでしょう。いやー、でもあの曲の最後のサビ前、ツーバスで盛り上がるところでヘッドバンキングしてたのは私くらいでしょうか。思わずロック魂が…(苦笑)。『お仕事』はあそこまで大仰で複雑な曲なのに、凄くライヴ映えするのにビックリしました。ラストは『直球』で元気に飛び跳ねて、ライヴ本編は終了!いやー、でも『直球』のAメロ、ノリにくい、踊りにくい!先の記事でも書きましたが、7拍子ですからね、あれ。普通にやってても踊れない。結構皆さん「あれあれ?」って感じで翻弄されてました(笑)。イチニ、イチニ、イチニサン、って数えながらノルのがコツです。

 アンコールではこれもまさかの『責めないデイ』をやってくれたのが嬉しかった。『ラフ』を聴いてたむらぱんを認知した自分が、『ブタベスト』を借りてきてこの曲を聴いてトドメをさされたのです。いつか生で聴きたいとは思っていましたが、まさか今回聴けるとは思っていませんでした。たむらぱんのアンコールには、何かしらのメッセージがある気がします。今回なら大雑把に言えば「明日からまた仕事だけれども、自分を信じて頑張れ、時にはS.O.S.を出してもいいから」と。そう言ってくれているのではないかなと、…思うのは自分だけでしょうか? そのアンコールラストは『S.O.S』の大合唱で締め、今回の公演は幕引きとなります。実に熱く、心地よくテンションが上がった空間でした。

 その他、今回新潟LOTSのステージではたむらぱんが立つステージ中央に5m四方くらい(?)、高さ10cmほどの高台が作られていました。たむらぱんちっちゃいからよく見えるようにとのことなのでしょうが、「人間不思議なもので、囲われるとそこから出たくなくなるというか…」とMCでも本人が言っていたように、本当にあまりその枠の外に出てきませんでした(笑)。小さい枠の中で踊ったり跳ねたり。前回よりも全体的にアクションが大きくなったし、幅が出てきた気もします。彼女が歌ってる表情、仕草は本当に楽しそうでいいですよね。それだけでこちらも楽しくなってきます。

 もう一つ印象に残ったMCはShing02の言葉について。指二本で出すピースサイン。皆ピースを目指してゼロから一気にやろうとするけど、まずは1を出さなきゃいけない。この1が重要なんだと。「いい言葉でしょう?これ、私が言ったんです!…そう言いたいんだけど、Shing02さんが言ったんです」と笑うたむらぱん。いい言葉が出てきて、嬉しいんだけどそれを言ったのが自分じゃないのが悔しいなぁ的な(笑)。その言葉にこだわる姿勢が、その他のMCでも随所に出てました。今回MCで敢えて歌詞や言葉に言及することが多かったのは、『wordwide』という言葉をフューチャーしたアルバム名だったからなのか、彼女の中で言葉が占める重要性が以前よりさらに大きくなってきたからなのか。ただ、アルバム『wordwide』では彼女の言葉がこれまでよりもずっと、自分の心に響いてくるようになったのは確かです。それはこのライヴの歌や、MCでも然り。『ナクナイ』の頃と比べると、凄く言葉がよくなったなぁと感じました。

 というわけで、客席後方で観ていた前回とは違い、最前列でガッツリ楽しんできた今回のコンサート。やはり素晴らしく、とても楽しめるステージでした。まぁ何と言うか、客席のノリ方にイマイチ迷いがあるのはたむらぱんならではしょうか。幅広すぎる年齢層も一因でしょうし、例えばブルーハーツみたいにとりあえずピョンピョン跳ねておけばノレるというシンプルな音楽でもない(ブルーハーツは大好きですよ、念のため)。そこがまた観客の一部のノリにためらい傷のような跡を残すのですね(笑)。でもまぁたむらぱんの場合そんなところこそが魅力なのですが。

 ライヴ後、放心状態で新潟LOTSを出て、寒風に吹かれながら家に着くまでの間、体に残る熱気の余韻を楽しみながら夜の新潟の街を歩いて行きました。今回も最高のパフォーマンスで魅せてくれたたむらぱん。また新潟でライヴやってほしいですね。

2012年11月9日金曜日

茂木健一郎氏 寺子屋授業@大島中学校

 本日、ご近所の大島中学校で茂木健一郎氏を招いて中学生と小学5・6年生相手に寺子屋授業が行われていたので、地元の一般参観として聴講させてもらいました。お客様が「こんなイベントあるよ」と教えてくれたので、市民の一般参観もあるとのことだし潜り込めるだろうと行ってきました。大島中学校の卒業生では、もちろんないんですが(笑)。

 形式は最初と最後の10分くらいずつを茂木氏が一人で話し、残りは校長先生と生徒を交えての質問コーナー。茂木氏に次々と壇上に引っ張り出され、地元のテレビカメラの前でムチャぶりに対応を迫られる小中学生達はとてもいい経験になったことでしょう。茂木氏に言わせると、こうしたプレッシャーのかかる状況で精一杯対応するということも、挑戦して克服したという脳のドーパミンが出る要素なんだとか。

 今回は小中学生相手のお話でしたので難しい話題は出てきませんでしたが、一つ参考になったのは集中力について。集中力というのは瞬発力が大事で、ダラダラしているところから一瞬でトップギアまで入れることが集中力を発揮するためにはいいということ。宿屋で新撰組に突然襲われた坂本竜馬の気持ちで目の前のことに一瞬で集中力をトップギアに入れて取りかかれと。またそうすることで、集中するための力も鍛えられていくそうです。集中すると決めたら一気にトップギア。これは自分も覚えておきたいなと思いました。

 とはいえここだけの話、茂木健一郎氏は「アハ体験」とか、「~は脳にいい」「~で脳が活性化する」とか言い始める前の方が好きだったりはするのですが。クオリアについて語る認知科学者であった頃は、あの小難しい認知科学の世界をよくこんなに平易に、面白く本にできるものだと感心していたものです。そして小説『プロセス・アイ』がなにげに面白い。

 今回は進行も細かく決めていたわけではなさそうで、大分アドリブが垣間見えるフリーダムな講演会。茂木氏は小中学生相手に終始ジョークを交え、生徒たちを会話の中に入れながら進めていき、どちらかというと聴いていてためになるというよりは、普通に楽しい講演会でした。大島中学校の今の校長先生が凄く茂木氏を尊敬しているみたいですね。それで自分の世界の見方を変えてくれた茂木氏を、子供たちのために招聘しようと頑張ったみたいです。その行動力には感服します。校長先生も外国人講師の方も茂木氏も仰っていた、この2本の川と果樹に囲まれた大島という地域に誇りを持っていってほしい言葉。やはり自分の育った環境をしっかり見つめ、誇りを持つというのは、ひいては自分の足元も固め、周囲を愛し、地元を、国を愛するためにまず大事なんだなと感じました。

 突然飛び込んだ講演会、茂木健一郎氏の話を生で聴けたというのもそうですし、色々と楽しい時間でした。今日この寺小屋授業に参加した小中学生たちはいいですね。校長先生が一生懸命にこういう場を用意してくれるというのは、実はとても幸せでありがたいこと。大島中学校、頑張ってください。

2012年11月8日木曜日

たむらぱん『wordwide』

 前作『mitaina』から9ヶ月という驚異的な短ペースでの新作となったこの『wordwide』。前作が個別の曲のクオリティとは裏腹に、何故かアルバム全体として見た場合に少し違和感を感じる内容だっただけに今回はどうか、個人的にはたむらぱんの今後の方向性を占う意味でも非常に重要なリリースになると感じていた本作。聴いてみていやいやビックリ。たむらぱんの"おもちゃ箱をひっくり返したような"キャパシティの広い音楽性と緻密なアレンジ、そしてそれを感じさせない楽しさや、あるいはこれまで感じることがなかった種類の気迫までも感じる、素晴らしい大傑作アルバムとなっていました。

 まず度肝を抜かれたのが2曲目の『おしごと』。たむらぱんのCDに初めて男声コーラスが入ってきた、クイーンばりに分厚いコーラス重ね録り。ボヘミアン・ラプソディよろしく次々に曲が展開していく壮大なアレンジのこの曲。それでいてその極度に早い展開に翻弄された後にも、オクターヴを切り替えながら歌われるサビのメロディーと歌詞がひたすら頭の中に残る、まるで呪いの歌のような音楽(笑)。一聴、思わず「なんじゃこりゃ!?」と思いました。とうとうたむらぱんもここまで来たかと。ここまで節操のない(?)展開をしておいて、それでまったく違和感がないのが凄まじい。無理矢理音楽を広げたのでなく、あくまで自然と変態を突き進むその感じ。2曲目にしていきなりのハードパンチです。

 そして次の『でんわ』。本来は2011年3月か4月にシングルでリリースされるはずだったこの曲ですが、3.11の震災後にリリースが延期(中止?)されていました。その理由を、たむらぱんはナタリーへのインタビューでこう語っています。

実はこの曲、シングル候補だったんですよ。でも、その時期に震災が起きて。「突然いなくなる」っていう感覚が全く違う方向に向いちゃう気がしてリリースしなかったんです。「電話が来た時は」「あぁ手遅れだ」って書いちゃってる自分が気持ち悪い、とも思ったし。でもそういうことって多分どこにでも起こり得ることなんですよね。そういうことを感じたりもしました。

 世界の空気に敏感だった彼女がリリースを取りやめたこの曲が、ようやくこのタイミングで聴けるようになったわけです。日常の中でのささやかなコミュニケーションとその行き違いが歌われたこの曲、最後には村上春樹の『ノルウェイの森』のエンディングを思い出しました。あれだけ待っていた電話が来たときには、もう電話の相手といるべき場所には自分はいなかったという、後悔の混じった哀しさ。それをあれだけ爽やかで耳に残るメロディーとともに歌いあげる、これもまた一回聴いたら頭の中でグルグル回る曲です。しかもこの曲、最初は基本4拍子でサビだけ3拍子なのかなと思っていたら、冷静に聴いてみるとサビもちゃんと4拍子で、Voのメロディーだけが3拍子っぽいフレージングだからポリリズムのように聞こえてるだけという、リズム遊びのたむらぱんマジック。さすがです。これだけ聴きやすいポップな曲の中に、さりげなくそんな要素を織り込んでくる。まさにプログレッシヴ・ポップ。この曲のサビ、ド○モとかa○とかにCMで使ってもらえれば一気にブレイクすると思うんだけどなー…。

 そして次の『ぼくの』がまた凄い曲なのです。これまでは比較的冷静にというか、面白いメロディーを多彩な声色で表現するというイメージがあったたむらぱんが、初めて声が掠れるほど声域いっぱいの高音を続けて、震えるような叫びを聴かせてくれています。これにはドキッとしました。そういうソウルフルなイメージがあまりなかった彼女が、一杯に声を張り上げて痛切に叫ぶのです。「ぼくをなきものにしないでよ」と。音楽は彼女にしては割と素直な名曲なのですが、その振り絞る叫びの説得力が物凄い。これは震える曲でした。曲やシーンに応じて使い分ける声のパレットと表現はたくさん持っているけれど、ストレートに訴える力は確かに少し弱いかなと思っていたたむらぱん。でもそのカラフルな歌声を聴いているとそれが不足だとは感じていなかったのですが、そこにさらにソウルフルな叫びまで加えてきました。これはかなりの新機軸です。そしてこれもまたどこまでもサビが耳に残る。印象的なメロディーを作らせたらまさに天才的な彼女ですが、ここまではその才能が凄まじいまでに炸裂してます。

 その他も歌詞が個人的に好きな『ST』、『new world』とともにシングルカットされ、伝統的たむらぱんスタイル(?)で楽しませてくれた『ヘニョリータ』等、相変わらずカラフルで様々な色合い、表情を見せてくれる楽曲達。その中でももう一つ極めて強烈なのが『直球』でした。この曲、サビだけ聴いてるとタイトルの通りストレートな8ビートギターポップかと思いきや、全体としてはとんでもない変態曲。このアルバムでは『お仕事』と双璧です。サビ以外のリズムの変化が非常に大胆かつアブノーマル。Aメロは4+3の7拍子で進んでいき、一回目のBメロは4拍子に戻ってサビの8ビートへ。そこから間奏は3+4の7拍子になってAメロはまた4+3の7拍子へ。この同じ7拍子でも内訳をAメロと間奏で変えてくる辺りが実に芸が細かい。さらに「♪ふわっふわっ」と歌ってるところなんてイマイチ何拍子かつかめないし、2回目のBメロは6/8拍子に展開して8ビートのサビに戻る。どんだけリズムで遊んでんだと(笑)。「変化球なんて使わないで直球勝負」とか歌ってる割に、音楽は全盛期の松坂のスライダー並みの勢いで鋭く変化していきます。こんな曲をサラッと聴きやすいポップなセンスでまとめてくるのが驚愕です。

 思えば前作『mitaina』は、自分としては少し違和感の残るアルバムでした。うまく言えないのですが、印象としては「メジャーを目指そうとしすぎている」感じでしょうか。楽しい音一杯、耳に残るメロディー一杯ではあるのですが、展開やアレンジが僅かに単調に感じたのです。豪華なゲスト陣を迎えてこれまで以上に華やかな音作りがされた前作の中で、その単調さ、そこがパッと聴いた際の「わかりやすさ」を目指しすぎた印象で、持ち味の意外性が僅かではあるものの損なわれていた気がしたのです。もちろん多様性はあるんです。最初の5曲『ハイガール』『ファイト』『フォーカス』『しんぱい』『白い息』はそれぞれまったく別の方向に、たむらぱんという中心から円を描くように別の方向へとそれぞれ放たれた名曲達ですが、反面曲ごとの多様性の割に曲の中での意外性は希薄だった。それが前作『mitaina』の感想でした。『やっぱり今日も空はあって』とか、ホントに素晴らしい名曲なんですけどね。

 そこへきてこの最新作『wordwide』です。実は『new world』をシングルで聴いた時には少し心配していたんです。やっぱり華やかにわかりやすさを目指した方向性で行くんだろうかと。でもこのアルバムは完全に吹っ切れたようで、たむらぱん本来の同じメロディーは同じ形では二度出てこないくらいのアレンジ・展開の多様性が見事に戻ってきました。そしてこれまで以上に耳に残る天才的なメロディメーカーぶり。よくもここまで作り込んだもんだと驚嘆するくらい、今回はすべての曲においてアレンジが緻密で単調さがまったくありません。だから全然聴き飽きもしない。

 そして『wordwide』というタイトルが示す通り、このアルバムでは言葉がとても力強く、説得力があります。これまでたむらぱんの歌詞は一部は好きなのですが全体的にはまあまあ、くらいの印象でどちらかというと器楽的に聴いていたのですが、今回は言葉の力を凄く感じます。『ぼくの』のように言葉とメロディー、歌が相まって痛切に訴えたり、『でんわ』のように文学的なストーリー性と切なさを感じたり、『ST』のように思わず自身を重ねてみたり、『知らない』のように生き方を考えさせられてみたり、これまで以上に音楽と言葉がきれいに混ざり合ってきたなと感じます。言葉にメロディーを乗せるのでもなく、その逆でもなく、言葉とメロディーがお互いに同時になくてはならないような親密感。それが言葉の説得力をさらに増していくのです。そこは凄く、いい意味で変わったなぁと。

 長々と書きましたがこのたむらぱんの最新作『wordwide』。最高傑作と呼ぶにふさわしい、音楽も言葉もこれまで以上に進化したなと心から驚嘆する一枚でした。これほどの才能は世界を見回してもなかなかいない。月末の新潟でのコンサートに行くのがもう既に待ちきれないほど楽しみです。

2012年10月29日月曜日

インバル指揮 都響 マーラー交響曲第3番@東京芸術劇場

 というわけで行ってまいりましたエリアフ・インバル指揮 東京都響、演目はマーラーの交響曲第3番!かねてより聴きたいと思っていたインバル/都響のコンビ、でも彼らはなかなか新潟には来てくれません。こちらから出向くといってもコンサートのためだけに交通費2万円はちょっと厳しい。そんな中、ちょうど友人が結婚式を27日にするからと東京にお呼ばれしたので、ついでに翌日何かいいコンサートないかなー、と探していたら見つかったのがこのコンサート。実に素晴らしい組み合わせ、演目です。マーラーの中でも1・9番と並んで好きな3番が、インバル/都響の演奏で聴ける!そう意気込んでチケットを取りました。ただ、日程が決まった時には完売…。仕方なくオークションで一番諸々の条件がよさそうなものを選んで入手しました。こんな時にはオークション便利です。

 当日、東京芸術劇場に足を運ぶだけで気分は高揚していきます。その前日から聴き始めたたむらぱんの新譜『wordwide』にも散々心をくすぐられていましたがそれはそれ。やはり会場まで来たらもうマーラーの気分にどっぷりです。期待の中、会場で席を確認すると何と最前列中央、コンサートマスターの真ん前、インバルまでわずか5mの至近距離!音のバランスは微妙かもしれませんが、インバルや楽団員の皆さんの表情まで手に取るようにわかる、これはこれでいい感じの席です。いよいよもって興奮は高まっていきました。

 いよいよ開演。冒頭のホルンの堂々たる音色にまずすっかり持って行かれました。濁りのない音で朗々と威風堂々。コンサートの最初の一音は会場の空気を作り、その後の音楽を運ぶ土台を作る上で最重要なポイントですが、このホルンはまさにその最初の一音でその後の演奏を引き受け、さらに期待させるための素晴らしい土台を作ってくれました。そしてそこに合わせてジャン!ジャン!と他のオケが入ってくる時の迫力。その後に続く第一楽章は、その長さも充実度も合わせてそれだけで単体の交響曲を一曲まるごと聴き切ったかのような興奮と満足感がありました。そしてクライマックスで一気にアクセルを踏み込むインバルに同調してテンションを上げていく都響。最高潮に達したアンサンブルは、最後ピタリと弾けて音も跳ね上がるようにしてフィニッシュします。弓を上げたところで手を止めてポーズを決めて、「どうだ」と言わんばかりの都響メンバー。実際ドヤ顔しているメンバーもちらほら(笑)。まだ曲の途中であるにも関わらず、会場中が思わず拍手しそうなのを堪えているのがわかる、圧倒的な精度・迫力のアンサンブルでした。

 第二・三楽章のスケルッツォも、音楽の生き生きとしたリズムと歌が濁りのない音色で奏でられる、とても心地よい音楽。都響の音色は、特に定評のある弦はさすがに魅力的です。濁りのない音色ながらまったくの透明なわけではなく、少し涼やかさを感じる上品な銀色を思わせる素敵な音。やはり、"濁りのない"という表現がピタリときます。また、とてもリズム・アクセントが生き生きしている。同様の印象は金管・木管も感じますが、やはり弦の魅力が目立ちます。また演奏者の表情もいいんです。曲調に合わせて、テンションに合わせて、時に笑顔すら見せながら演奏する弦セクション。素晴らしかったです。

 今回は第二楽章が終わった後に小休止があって、そこで合唱・児童合唱、歌手が入場。彼らが活躍する第四・五楽章も美しいハーモニーが堪能できました。そして第五楽章が終わった後、間髪入れずに入ってくる、弦が奏でる最終楽章のあの旋律。児童合唱の煌びやかな響きから一転、余韻を包み込むように優しく暖かく入ってきたその冒頭にゾクッとしました。比較的淡々と、でも暖かく深い感慨とともに世界を慈しむような、その歌が沁みていきます。最後どんどん音が折り重なり合いながらテンションが上がって行き、クライマックスを迎える頃にはもう背筋がゾクゾクしていました。最前列という席の兼ね合いもありましょうが、芸術劇場という巨大な箱にまったく力負けしない、大迫力のアンサンブル。それでもまったく音に濁りがない辺りがさすがです。終演後もしばらく感想としての言葉が出てこない程、素晴らしい演奏でした。

 ただ、これは演奏者の問題ではないのですが、終演後の拍手がちっとばかり早かったなー…。決してフラ拍という程でもないのですが、やや早めに数人が手を叩き始めたあのタイミングでは、まだホールに残響が少し響いていたのです。芸術劇場の高い天井の遥か上の方で、外に向かって飛んで消えていく音の最後の羽が一枚二枚、そのやんわりとした響きをもう少し楽しみたかったのですが。聞こえてなかったんだろうなー、あの最初の拍手をした人達にはその音が。そう思うことにしました。聞こえてないんだ。だから余韻が楽しめないんだ。うん。

 全体としての感想。インバル/都響のマーラー3番は、基本早めのテンポで進んでいきました。決して感情的に大きく揺さぶってくるわけではなく、むしろスッキリと素直に美しさを前面に出して聴かせてくれます。その中で様々に空気を切り替えてきて、複雑な多面性を都度表に出して行く。そして盛り上げるところでは一気にテンポ・音量のダイナミクスを大きくとって攻めてくる。その落差がとても大きいので聴いてる側のテンションは否応なしに上がるのですが、それがあざとさや不自然さは全く感じさせずにあくまで自然に心が引き上げられる。そこがまた聴いていて気持ちよかったです。音楽の流れに一体化して、一緒に進んでいける音楽。その自然さがインバルの音楽の素晴らしさなのだなと思いました。終演後の満場の割れんばかりの拍手、スタンディング・オベーションはこれだけの聴衆が音楽と一体化できた証でしょう。聴衆を音楽に引き込み一体化する力は、会場で聴いてこそのものですね。やはりコンサートを生で聴くのはいいものです。

 以下余談。インバルってかなり派手に歌うんですね。先にも書いた通り、自分は最前列中央、コンマスの前辺りにいたのですが、その位置だとインバルの声が聞こえる聞こえる(笑)。もう半分とまではいかずとも、1/3くらいは声出して歌ってたんじゃないかっていうくらいたくさん歌ってました。時々コンマスのヴァイオリンの音より響いてるくらい歌ってました。

 余談その2。演奏後、ステージ上の皆さんが感慨深げに客先を眺めているのを見て、ステージから見た満員の芸術劇場ってどんな感じなんだろうなとふと思いました。どんな景色を今彼らは見ているのだろうなと。そういえば、この位置からなら振り返ればステージ上とあまり変わらない景色が見えるな、と思い、おもむろに振り返ってみました。凄い景色でした。巨大な東京芸術劇場、その遥か上まで、正面も右も左も、すべての空間に人がいて、皆が惜しみなく拍手を贈っている。ただの聴衆に過ぎない自分でも、これだけの人とこの素晴らしい音楽を、時間を共有したのかと思うと胸が熱くなる程でした。インバルやステージ上のメンバーは、あれだけの充実した演奏を終えた後に、一体どれほどの感慨でこの景色を見ているんだろうなと。いつの日か、これほどの大きなホールで満員の聴衆相手にとは望みえないながらも、自分もまたそのステージに立ちたいものだと改めて思った次第です。ステージはね、好きなんですよ。あの緊張感も、終わった後の充実感と解放感も。まぁ、後者はいつもあるとは限りませんが(笑)。

 最後に、今回の都響はチェロ外側の通常配置で16型の編成。コンマスは四方恭子、サイドに矢部達哉。ポストホルンは舞台左裏で、トランペットの1番を吹いた高橋首席が兼任しておりました。また遠くから響いてくるこのポストホルンの音が非常に美しかったことを付けくわえて、今回のコンサートの感想とさせていただきます。いやー、このコンサートは本当に行ってよかったです。他のマーラー・ツィクルスも聴きたくなります。どれか一つでもいいから新潟でやってくれないかな…。