2012年6月25日月曜日

きよふく、結婚式

 去る6月23日、クラギタの盟友きよふくがとうとう結婚式を挙げた。思えば彼との出会いは一回生の時、4月のクラギタ新歓演奏会。当時軽音に入ってエレキの帝王になる気マンマンだった自分だが、たまたま見た軽音の新歓ライヴのレベルの低さに絶望し、身の振り方を考えていた時だった。何故かは覚えていないが二日酔いで一日クラクラしていたその日、清心館の教室の黒板の端に板書してあった「クラシックギター部新歓演奏会 本日」みたいな宣伝がやけに頭に残り、夕方帰り際に演奏会会場に気まぐれで立ち寄ったのだ。そこで出会ったのがきよふくだった。

 演奏会場に入ると、もう演奏会は終わって写真撮影をするところだった。演奏など一曲も聴いていない自分も何故か撮影の列に加わったわけだが、そこでたまたま隣にいたのがきよふくだった。何を話したのか、その場で盛り上がった自分は、そのままきよふくの下宿に遊びに行き、そこで彼の高校時代のギター部のVTRを見せられる。それが自分とクラシックギターとの"本格的な"出会いだった。これは凄いと、素直にそう思った。彼の母校、松坂商業高校は当時ギター合奏で栄華を誇り、100人を超える部員に全国連覇のクオリティをもって、海外へ演奏旅行にも出かけていた。いきなり、その鮮烈な映像を見せられたわけだ。そこから、自分のクラシックギター部での人生が始まった。当のきよふくは、高校時代の部活との落差が落胆につながったのか、大学の一回生の頃はあまり部活に熱心ではなかったのだが(笑)。

 その後数々の思い出が彼とはあるわけだけど、そんなきよふくもとうとう結婚。のざてっちゃんと共に結婚式に出席させてもらって、自分も万感の思いで一杯でした。またのざてっちゃんが本当に自分のことのように、自分のこと以上にきよふくの結婚を喜んでいるのがとても印象的。長い時間をかけて親密な空気をゆっくりと過ごした披露宴、素晴らしいものでした。

 思えば、大学時代からきよふくの言葉の端々には自分の家族をとても大切に思う気持ちが感じられた。今回、奥さんとはもちろん初めてお会いしたわけだが、その紹介や言葉を聴いていると、奥さんもまた同じように、とても家族を大切にしている人なんだなと感じた。恐らくはその大切な価値観が深いところで共有できたからこそ、結婚というところまであの慎重なきよふくが辿り着いたのだなと、そのように感じた。とてもお似合いな二人。そう思うと、やっぱり素直に嬉しい。

 新郎・新譜とも友人は二人ずつしか呼んでいなかったので、披露宴の後にいわゆる二次会はナシ。代わりに、キムとシノが披露宴が行われた津まで駆けつけてくれ、きよふくも含めて5人で飲み直した。こうして飲んでいると大学卒業後10数年の時なんてあっという間に埋まる。もちろん少し太ったとか、白髪がおか、生え際がとか、そんな小さな諸々はそれぞれあるけれど、飲んで話していると結局皆、お互いあの頃と変わってないなぁという話になり、昔のこと、今のこと、これからのこと、大切なこともどうでもいいことも、色々な話に花が咲く。今は遠く離れてしまっていても、普段はそれほど頻繁に接する機会はなくても、やはり大学時代という貴重な時間を一緒に駆け抜けた仲間というのはいいものだなと思う。会うのは本当に久しぶりでも、気を使うでもなく本音で話せる。今回はきよふくが結婚式という形で仲間が何人か集まる機会を作ってくれたけど、たまにはこのように集まるのも素敵だなと、その時皆で話していた。何年かに一回、クラギタ同窓会でもやるかと。実現するかどうかはわからないが(というかこのままだと実現しなさそうだが)、小さいなりに夢のある話だ。

 改めて、きよふく、ご結婚おめでとうございます。自分の大学時代の過ごし方に、あるいはその後の人生にも、とても大きな影響を与えてくれたきよふくの結婚式に、のざてっちゃんと共に出席できたのはとても光栄だし、嬉しかったです。奥さんとどうぞ、お幸せに。人生のパートナーを得て今後も一層の努力とともに未来を目指すきよふくに、こちらもいつでも胸を張って会えるよう顔を上げて生きていくさ。また何かの機会に楽しい酒を飲みましょう。See Ya!

2012年5月28日月曜日

東京交響楽団新潟定期『大地の歌』@りゅーとぴあ

 今日はりゅーとぴあで東京交響楽団新潟定期演奏会、プログラムはモーツァルトの交響曲第35番『ハフナー』とマーラー『大地の歌』。ユベール・スダーン指揮、ビルギット・レンメルトのメゾソプラノ、イシュトヴァン・コヴァーチハーズィのテノールでした。この演目を見た時から、新潟では『大地の歌』はなかなか聴けないし、行ってみたいなと思っていたコンサートです。元々クラシックの中でも歌曲が苦手な自分は、マーラーの中でもこの曲はあまり聴きこんでいる部類ではありません。ので、演奏を聴きにいくというよりは、この『大地の歌』のどこがいいのか、その魅力を教えて、スダーン&東響、くらいの気持ちで聴きに行きました。

 配られたパンフに『大地の歌』の歌詞と対訳が付いていたので、それを見ながら聴いてみました。するとなるほど、この詩に対してマーラーが抱いたイメージがどのようなものか、音を通じて明確に伝わってくる。やはり歌曲というものは詩のイメージをつかむことが大事です。音だけではなかなかわからない。 一応歌詞があれば聴きながら追う程度にはドイツ語の読みがわかることを今日ほど感謝したことはなかったです(笑)。ちゃんと追いながら歌詞を読んでいると、詩のある部分に対してマーラーがどのように感じたのか、それを指揮者がどう表現しようとしているのか、それがちゃんと伝わってくる。そこが「ああ、面白いな」と思いました。たまに「へぇ、ここは自分が読んでいる詩のイメージとは違うな」とか、そんな面白み。

 『告別』を詩を読みながら聴いていて、友と別れて故郷に死に場所を求めて帰って行った語り手は、最後には救われたのだろうか、そんなことが気になりました。音楽は暖かいとも寂しいとも取れる不思議な静けさの中で幕を閉じます。人生の刹那さ、若さ、美しさの儚さを繰り返し歌っていくこの『大地の歌』で、最後語り手はその刹那から救われたのでしょうか。永遠の大地と同化することで。

 スダーン&東響の演奏は、マーラー独特の毒気は薄いかもしれませんが、詩を読んで、追いかけながら聴いているとその世界がイメージが、鮮明に映像として浮かんでくる。その意味で曲と演奏が、指揮者とオケと歌手が、一体となって『大地の歌』の世界を描く、実にいい演奏だったと思います。 欲を言えばテノールにもう少し声量がほしかったですが、それでもこの曲の世界を十二分に堪能させてくれました。おかげでこれまであまり聴き込んでこなかった『大地の歌』も好きになれそうです。やっぱり生で聴いて初めてわかる音楽の機微というのはあるものだなと、改めて感じたコンサートでした。

2012年5月10日木曜日

Android携帯が死んだ日

 今日まる一日、私のAndroid携帯が完全に死んでおりました。

 前の晩からひたすら再起動を繰り返し、いつまでたっても使える状態にならないので諦めて放置して眠りについたら、朝になってウンともスンとも言わず、電源が入らない状態に。「再起動しすぎて電池が尽きたか?」と思って充電しようとしても電池がたまっていきません。あまつさえ、コンセントにつないだ状態でも起動直後に一瞬画面が見えるものの、2~3秒でまたすぐ落ちる始末。「こりゃダメだ」ということで、ショップに持っていくことにしました。

 できれば午前中にも治してしまいたかったのですが、仕事がバタバタしていたためショップに行ったのは閉店間際の19時半。色々と調査をしてもらって結局本体に不具合が生じているとのことでした。私のAndroid携帯は明日でちょうど契約一年になるとのことで、なんと今日の時点でギリギリ一年未満の保証対応が可能な期限!対応してくれた店員の方も「残り1日!」と驚いておられましたが、その場で本体を新しいものに交換してくれました。これが今日持っていった場合だと、もう一年になるので店頭での交換ではなくメーカーに送っての対応で、10日ほど時間がかかってしまっていたそう。いやー、危なかったというかラッキーというか。アプリのインストールや設定はやり直しになりますが、それでも本体が新しくなって甘くなっていたボタンなんかも当然快適になったのでO.K.です(笑)。

 ショップの方の対応を見ていて、とても丁寧に原因の切り分けを行い、契約の範囲で出来る限りその日のうちに携帯を使える状態に戻そうと色々対応してくれる姿勢には非常に感服しました。一年未満で携帯本体が壊れるなんて一言クレームつけてもよさそうなものですが、その対応を見ているとクレームどころかむしろお礼が言いたくなってくる。お客様への対応の姿勢というのは、やはり大事なんだなとも感じた次第です。自分も大変な時こそ、丁寧で的確な、お客様に感謝されるような対応ができるようになりたいものだと思いました。

2012年4月23日月曜日

ラ・フォル・ジュルネ新潟プレ公演

 今年で3年目となるラ・フォル・ジュルネ新潟、今年は日程の都合上本公演には足を運ぶことができないので、せめてということで本日行われたプレ公演の方に行ってまいりました。松沼俊彦指揮 新潟交響楽団で、ショスタコーヴィチの『祝典序曲』と同郷のピアニスト小杉真二さんをソリストに迎えてのラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番。そしてチャイコフスキーの『くるみ割り人形』より抜粋です。新潟交響楽団の演奏を聴くのは初めてですし、小杉真二さんのピアノも10年ぶりくらい。楽しみにしておりました。

 演奏は一曲目のショスタコ『祝典序曲』。これがよかった。一聴ガタ響は金管にパワーがあるオケだと感じましたが、この曲のクライマックスでは正にその金管が炸裂。ステージ後方の2階席にも並んだトランペットが最後豪快に音を出して大音響・大迫力の中フィニッシュします。気迫のこもった演奏に、後ろの席に座っていた見知らぬ人も「これはアマオケのレベルじゃないな」と感心しておりました。

 続くラフマニノフのピアコン2、割と音量で力押ししてくるタイプのガタ響に対して、小杉さんのピアノは一人で立ち向かうにはちと線が細い感じでオケが強奏するとピアノはまったく聴こえなくなるくらい。特に第1楽章はほとんどピアノなんて聴こえないくらいバランスが悪く、ちょっとひやひやしたものでした。とはいえ第2楽章や、アンコールで演奏されたチャイコフスキーの『10月秋の歌』での繊細でロマンチックな歌い回しはさすが。しっかりと音楽を堪能させてくれました。

 後半最初に行われたインタビューで語ったところによると、小杉真二さんは今回ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番初挑戦で、演奏依頼があった時最初は断ったんだそう。最終的には引き受けて、この難曲に3ヶ月足らずでの準備で臨んだそうです。彼が語ったラフマニノフの言葉。「音楽は心から生まれて、心に届かなければ意味がない」。 ラフマニノフは割とカッコよさ重視のような印象を勝手に持っているのですが、そのラフマニノフがこのような言葉を語っていることは少しばかり意外でした。

 『くるみ割り人形』も多少荒っぽいながらも気持ちの入った快演。ガタ響の今回の公演にかける気持ちが伝わってくる熱い演奏でした。

 新潟のクラオタ達の話によると「とにかく揃わない、演奏力が低い」ことで有名らしい(?)新潟交響楽団。あまりにいい話を聞かず、酷い噂ばかりなので「そんなに?そんなに酷いの、ガタ響!?」と思っておりましたが、聴いてみるとなかなかどうして、そんなに悪くないじゃないですか。確かに縦の線が揃わないこともしばしばあるし、パワフルな金管に比べるとちと弦は音量不足だし、全体的にピッチの甘い感じもしますが(特にホルン)、指揮者を中心に自分達の音楽を見据えてそこに向かって突き進んでいくパワーと熱気は素晴らしい。音楽への意思が感じられる演奏でした。テクニカルな面はともかく、これなら音楽としてそう悪く言うこともないのにねと思いながら、今回の公演は幕を閉じたということです。

 さて、私のラ・フォル・ジュルネ新潟は今年はこれで最初で最後。また来年、新潟で開催してくれることを祈りつつ、本公演も行かれる皆さん、是非楽しんで来てください。

2012年3月19日月曜日

にいがた酒の陣 2012

 というわけで行ってまいりました、にいがた酒の陣2012。新潟県内90の酒蔵が朱鷺メッセに集い、試飲料2000円のみで各蔵自信の銘柄を複数飲むことができる酒飲み垂涎のイベント。昨年・一昨年は店の展示会とかぶり、なおかつ昨年は震災のため開催中止となったため、私クラスの酒好きが新潟に戻ってきたにも関わらず、今回が初参加となります。酒の陣会場ではたくさんの銘柄を飲んだので正直全部は覚えていないのですが、普段飲んでいるお気に入り(久須美酒造や緑川酒造等)、プレイベントで発掘した雪椿酒造の『越乃雪椿』の他に、特に印象に残ったものをいくつか。

 やはりさすがと感じたのは雪中梅。新潟としては甘口な高級酒として有名な銘柄でもありますが、上品な甘みと飲みやすさ、飲みごたえ、全てを満たしており、これだけたくさんの銘柄を飲んだ中でも味が映えておりました。越後伝衛門の『純米吟醸生酒あらばしり』等も酸味がありフルーティーな味わいがなかなか新鮮でした。そしてダークホースが三条・福顔酒造の『ウイスキー樽で熟 成させた日本酒』。たくさん飲んだ上に酔っぱらってしまいよく覚えていませんが、とにかくこれが美味しかったのだけは覚えております(笑)。

 10万人を超える動員があったらしいにいがた酒の陣2012、人ゴミも凄まじかったですが、あそこはまさに酒飲みのユートピアでした。また来年も行きたいものです(笑)。

2012年2月29日水曜日

2・29の日記

 まだ朝だが、今日は日記を書こうと思う。それは日記じゃないんじゃないかというツッコミもあるだろうが、とにかく日記だ。せっかく4年に一度のうるう年、2月29日があるのだから、その日付の日記を残さないわけにはいかないというのがその理由だ。だから最近のツイート履歴の中から、「私にとって哲学とは」を語ったものを補足しながら書いてみよう。

 哲学とは何かと問われたら、世の中の具象的なあれこれの中から普遍性の高い抽象的な真実を探す試みだと答える。抽象的であることは曖昧であることではない。物事の外延を広げ、内包を狭めて論理を汎用化・普遍化すること。言いかえれば純粋性の抽出であり、その抽出のための過程が哲学となる。

 例えば雪と白米と白紙について考えてみよう。これらは雪、白米、白紙である限りそれぞれ別個の異なるものだ。それらの内包を見ていくと雪は白く、冷たく、空から降るものだし、白米は白く、穀物であり食物で、炊くことによって食べることができるし、白紙は白く、薄く、ペンや鉛筆で何かをそこに書くことができる。外延を見る限りは雪は雪であり、中にぼた雪や粉雪は含むが、白米や白紙は含まない。白紙も普通紙、和紙、コピー用紙は含むが雪や白米は含まない。そういうことだ。だが、ここから「白い」という抽象概念を抜き出すと、その「白い」という概念はどうなるだろうか。外延は一気に広がる。「白い」という概念は雪も白米も白紙も内包できる外延を持つ。が、「白い」という概念の内包はとても少ない。白いからと言って何かができるわけではない。他の色に染まりやすい、等が内包になる。外延を広げて内包を狭めた抽象概念を取り出すとはそういうことだ。

 この例えは単純なモノだったが、これを自身の体験や見聞きした事象・論理に対して行うことが哲学なのではないだろうか。一見つながりがないように見える様々な体験・事象・論理から、余計な内包を捨象して外延を広めていった結果見つかる、抽象化された真実。それを探る試みが哲学なのではないだろうか。

 だから「哲学なんて役に立たない」という言い分には反論できる。哲学によって抽出された抽象的な真実は、その外延の広さゆえに元々抽出された事例を超え、同じ外苑に含まれる事象に今度は具象化して実装することが可能になる。その実装の過程が時により実践と呼ばれたり、発想の転換と呼ばれたりする。 雪・白米・白紙から抽出された「白い」という概念は、逆に具象化していけば今度は白いシーツや白い犬なんかにも使える。「白い」という外延に含まれる以上、「白い」が持つ内包はその具象的な何かも持ち合わせているのだなと理解・対応ができるわけだ。

 ある物事から抽出された真理を別の物事にも適用することで、個別の具象的なことに例えそれが初見であっても応用を効かせることができる。これほど役に立つものもないんじゃないかな?世間の具象的なもののあれこれに、すべて具象的に立ち向かい、理解しようとしたら気力も時間も足りなくなってしまう。

 この抽象化の哲学は、青木淳氏の『オブジェクト指向システム分析設計入門』に大きく影響を受けた。オブジェクト指向の技術書ではあるけれど、オブジェクト指向という技術の思想性を教えてくれ、そしてさらにその思想の裾野の広さ、深さに気付かせてくれた。SEを辞した今でも大切な、稀有な名著。

 2月29日、うるう年の日記。改めて、自分が前職でオブジェクト指向的思考から得た哲学について書いてみた。

2012年2月26日日曜日

グレンツィング・オルガンの魅力 山本真希オルガンリサイタル@りゅーとぴあ

 いつもりゅーとぴあのコンサートホールに行く度に、ステージ後ろ2階席から天井にかけて大きく壮麗に鎮座しているパイプオルガン。常々どんな音・鳴り方をするのか聴いてみたいと思っていたのですが、ようやく聴くことができました。りゅーとぴあが誇るグレンツィング・オルガン。りゅーとぴあの専属オルガニスト山本真希が奏でるオルガンは多彩な音色・響きで音楽を立体的に組み上げて行き、素晴らしい空間が出来上がっておりました。

 当日の題目は『J.S.バッハとスペイン音楽』。前半はエレディアやアラウホ、パブロ・ブルーナといったスペインの作曲家による音楽が演奏され、後半はバッハと新潟出身の馬場法子によるグレンツィング・オルガンのための委嘱新作の初演という形になります。スペイン音楽、バッハ、そして現代の作曲家による委嘱新作の初演という、この実に魅惑的なプログラムもこのコンサートが聴きたかった理由です。

 エレディアの『エンサラーダ』で始まったコンサート。実はパイプオルガン自体生で聴くのは初めてだったので、その音色というとよくバッハの『トッカータとフーガ BWV565』でよく聴かれるような、荘厳できらきらと金属質で輝くような音色ばかりだと思っていた私は、出だしの意外とデッドな響きに少し肩透かしをくらいます。「あれ?」と。「こんな音なの、パイプオルガンって?」と。まるで小学校の音楽室にあった足踏みのオルガンのような、丸くて温かくはあるけれど、飾り気のないデッドな音色。ところがそれが曲を進むうちにどんどん音色が変わっていく、増えていく。フルートみたいなコロコロと転がるような優しい高音、自分のパイプオルガンのイメージ通りの金属的で艶やかな響き、唸りをあげるような低音、そしてトランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色!その他様々に細かいニュアンスで音色が変わっていくし、声部によってまったく違う音色が同時に弾き分けられたりする。パイプオルガンとはこんなに多彩な音色が奏でられるものなのかと驚きながら聴いていました。そしてこの多彩さはパイプオルガン全般に言えることなのか、それともこのりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンにだけ言えることなのか、それが非常に気になりました。自分はパイプオルガンと言えばJ.S.バッハのオルガン曲を中心にほんの少しばかりしか聴いていないわけですが、その中ではパイプオルガンにここまで多彩な音色があるとは感じられなかったのですから。前半の最後、作者不詳の『有名なバッターリャ』ではその多彩な音色が次々に現れ、金管が強演するような鋭い音圧・迫力に圧倒されます。プログラムの解説には「スペイン特有の水平トランペットやエコーが効果的に用いられ…」とのシンプルな言及。休憩時間に入り、早速このりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンについて調べてみました。

 りゅーとぴあのパイプオルガンは、スペインのグレンツィング工房が作成したもの。パイプオルガンの中でも特にスペインの音楽が演奏できるようスペイン独特の構造が取り入れられて製作されたとのことでした。一つの鍵盤の高音部と低音部で異なる音色を使うことができる「分割ストップ/分割カプラー」、正面に向いて水平に金管が取り付けられた「水平トランペット管」、さらにはスペイン風のフルート管やプリンシパル管等、スペインの多彩な音色を必要とするオルガン音楽を奏でるための独特な機構を持った、多機能・多彩なオルガン。それがりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンというわけです。なるほど、私が「トランペットがディストーションかけて強奏しているような突破力のある強烈な音色」と感じた音色は水平トランペット管だったわけです。確かに管が客席正面を向いて水平に出ているわけですから、それは突破力のある音にもなるでしょう。そしてパイプオルガンの音楽はほぼバッハくらいしか聴いていなかった自分は、その水平トランペット管の音色など知らないはずです。確かに後半のバッハの楽曲では水平トランペット管の音は出てきませんでした。そういうことだったのです。

 りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色の理由に納得がいったところで今度は後半戦、J.S.バッハと馬場法子による委嘱新作です。後半1曲目のコラール『目覚めよと呼ぶ声あり BWV645』は自分にとってもお馴染みの大好きな曲。そして何より『前奏曲とフーガ ト長調 BWV541』の演奏が素晴らしかった。山本真希の演奏は、多彩な音色を持つグレンツィング・オルガンの個性を活かして細かく音色を使い分けながら、バッハの高度な対位法が裏に隠し持つ旋律のリズム感をテンポ良く転がしながら気持ちよく聴かせてくれます。音色も音量もしっかりと練られ、組み上げられた非常に立体的な音楽。だからフーガの各声部も明確に聴き取れ、心地よい響きに身を委ねていればクライマックスではしっかりといつの間にか到達した大音量で盛り上げて大きなカタルシスとともに終わってくれます。このBWV541は本当に素晴らしい演奏でした。

 そしてプログラムの最後は新潟出身の作曲家、馬場法子による委嘱新作『クリスマスの歌"高き天より我は来たり"によるカノン風変奏曲 BWV769と4つの間奏曲』。これはバッハのBWV769の5つの変奏の間に馬場法子が作曲した間奏曲が挿入される形となっています。つまりバッハ-馬場-バッハ-馬場…という形で音楽が進んで行く。どのような音楽になるのか、実に興味津々でした。

 バッハのBWV769の第一変奏が終わり、いよいよ『Intermezzo Ⅰ Knock and ring』。オルガンを「息を送られることによって生きている巨大な生物」と感じたという作曲者が、「彼が本当に生物なのかを確かめるべく、体をノックしたり呼び鈴をならしてみたり」する様を描写したという音楽です。静寂の中から、音を出さずに風だけを送り、ブオー…と巨大な息遣いを思わせる描写、続いてカンカン、というノックや高音の呼び鈴等、描写的な手法によるいかにもな現代音楽。私の左側に座っていた小学生くらいの女の子は隣の母親に小声で「何やってんの?」と聞いてました(爆)。個人的には風を送る音による息遣いや、蠢き、慟哭を聴いている内に確かにこのオルガンが巨大な生物で、今にも動き出しそうな印象が感じられて、この曲はなかなか、面白いなぁと思いながら聴いておりました。如何にも現代音楽、って感じではありますが、この曲はいい。

 ただ、2つ目以降の間奏曲は少々期待外れというかわからなかったというか…。まぁグレンツィング・オルガンが持つ多彩な音色は活かしていたけど、オルガンの魅力を活かしていたかというとそうでもないように思えて、あまり感じ入ることができなかったというところが正直なところです。解説を読めば、まぁやりたいことはわかるんですよ。「ああ、それでこうなるんだね」と納得もできる。このスペイン様式のオルガンの多彩な音色でなければ実現できない音楽を作ろうとしたのはわかります。で、確かにその意味ではそれは実現されているんだけど、もう少し普通に音楽を聴いての感動とか、気付きとか、面白さがあてもよかったなぁ、と。1曲目の間奏曲にはそれがあったんですが。2曲目以降の間奏曲を聴きながら、この音楽は今日ここで初演されて、それだけならいいんだろうけど今後10年、20年、あるいはそれ以上、このりゅーとぴあでこのオルガンとともに新潟市民に愛され続ける曲になるのかと言えば、そうはならないだろうなぁと、そんなことを考えてしまいました。どうせこのオルガンのために委嘱新作が書かれるのなら、例えばりゅーとぴあでのオルガンのコンサートの最後のアンコールの1曲はお約束でこの曲みたいな、そういう新潟のオルガンを聴く人々に長く愛されるような音楽だったらよかったなぁ、と。まぁそんな耳当たりのいいような音楽では現代の作曲家の野心は満たせないのでしょうけど。そこだけ、少し残念でした。

 まったくの余談ですが、前半私は一階席の後ろの方正面に座っていたのですが、その時に席一つ空けた隣に外人の男性連れの女性が座っていました。カーテンコールで作曲家が紹介された時にわかったのですが、その女性が作曲家の馬場法子でしたとさ。

 ともあれ、りゅーとぴあのグレンツィング・オルガンの多彩な音色と素晴らしい音楽を堪能でき、満足なコンサートでした。この日は山本真希がりゅーとぴあのグレンツィング・オルガンで録音したCDの発売日ということで、会場でCDの即売及びサイン会も行われ、しっかりゲットして帰ってきたとのことです。このCDはりゅーとぴあでしか販売されないそうです。そもそも、りゅーとぴあがCDを製作したのってこれが初めてなんじゃないでしょうか?ともあれ、りゅーとぴあ専属オルガニスト山本真希によるオルガンコンサート、楽しませてもらいました。次はあのオルガンでサン=サーンスの交響曲『オルガン』聴いてみたいですね。