2002年9月30日月曜日
不自然な空
2002年9月29日日曜日
日曜終電帰宅
2002年9月26日木曜日
嫌な予感
2002年9月23日月曜日
束の間の休息と海辺のカフカ
さてさて村上春樹の『海辺のカフカ』ですが、この作品はまた色々な意味で実に村上春樹らしい作品でした。まぁこれから読む人もいると思われるので話の詳細については語りませんが、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『スプートニクの恋人』でも見られるような構成の中で、いつの頃からか村上春樹が追い続けている言葉達が鏤められています。言葉で説明しても伝わらないものはまったく説明しないのがいちばんいいので具体的に何がどうとは申しませんが(笑)。
2002年9月22日日曜日
バッハの譜面の美しさ
2002年9月21日土曜日
BWV826のSinfoniaをギター編に・・・
そうそう、この曲は元々3部構成で、最初の和音を中心にゆったり進んでいくところは現在まだ編曲しておりません。後から付ける予定ですが、とりあえず今は2部から始まります。
2002年9月16日月曜日
平穏な一日のはず
2002年9月15日日曜日
12時間睡眠
2002年9月14日土曜日
侵入者発見
で、ウチに入り込んでいる鳴く虫なのですが、とうとう今日姿を拝見することができました。どうやらヤツの正体はコオロギのようです。家に帰ってから、窓を開けてくつろいでいると、外で鳴いている虫の音に引かれたのかキッチンの方から部屋の方へピョコピョコと這い出してきたのです。姿が見えたのでつかまえて外に出してやろうと思って近付いていくと、また彼はどこか目の届かないところへ姿を消していきましたとさ。
2002年9月10日火曜日
風流でやかましい侵入者
2002年9月7日土曜日
生活とテンポ
今はどうだろう。車やバイク、あるいはそれよりもっと上の速度を経験できる現在、BPMが200を超える曲だって珍しくない。テンポはそのまま刺激と見るなら、昔のゆったりした甘ったるい刺激では、現代のテンポにはついていけないのかもしれない。もっとも、現代ではその刺激の強さはニアイコールでストレスの強さにもなっているようだが・・・。
テンポが速くなった。世界が狭くなった。それだけで飽き足らず、今度は時間と空間を飛び越えるかのように、テンポ感なんてまったく無視してしまうかのように、仮想のネットワークをパケットが飛び交うようになった。移動する距離が速度に比例しない世界で、一体テンポの概念はどうなってしまうのだろう。距離と速度が結びつかないこの現実で。そしていつからか、ステップを忘れてしまったかのように、踊りはドタバタと不様になり始め、最後には踊ることすらできなくなってしまう。「踊らされるな、自ら踊れ、周りが見とれてしまうほど」とずっと言い聞かせてきたにも関わらず。踊れなくなるだけならいざ知らず、そもそも踊らされることすらできなくなる日も来るかも知れない。世界は縮まり、壊れていく。人はつながり、拡散していく。情報は膨らみ、感性は削られていく。つながる世界は、孤立している。
何のことはない、ただこの場でやりたかったことは、誰のためでもなく、ただ知りたかったことは、一つ問いを投げかけてみること、次のステップをためらう自分にいつなったのかということ。一体いつから、踊ることができなくなったのだろうか。それとも元々、踊ることなんてできやしなかったんだろうか。
2002年9月5日木曜日
コミュニケーションツールとしてのコンピュータ
ひとつには基本的にコンピュータは「冷たいコミュニケーション」しかとれないということが挙げられる。コミュニケーションのモーダリティとしてよく挙げられる視覚や聴覚、運動神経、距離、リアルタイム性や相互作用性、それらの条件がうまく機能しなくなるためだ。高画質なビデオ会議では、実際面と向かうのと比べてもほとんど視覚情報や聴覚情報他の欠落はないにも関わらず、コミュニケーションの効率は著しく低下するという実験結果もある。それがチャットや電子メールになると、視覚や聴覚によるリアルタイムなコミュニケーション情報は皆無になる。表情や筋肉の動きやアクションによる相互作用や、それらによる文脈の強調効果がなくなるばかりか、声の抑揚やテンポといった情報も失われていく。そしてコミュニケーションの粒度は粗くなる。そしてそれがそのチャットや電子メールでのコミュニケーションの場でだけ効率が悪くなるのならまだよいが、コンピュータでのコミュニケーションの比率が多くなってくると今度は現実に面と向かい合った時に、普段コンピュータにない表情やら声色やらの情報を処理することができなくなってくる。何か最近、そんな人が増えてきているような気もするが・・・。
少し話は変わって、コンピュータでシステムを作ろうとする場合、特に最近はナレッジマネジメントなどが流行りとなりつつあるが、何よりも致命的なのがコンテキストの欠除である。我々は誰かと面と向かって話す時、明確に意識はしていなくても「この相手にならこういう言い回しで通じる」という、相手と自分が共有するコンテキストを意識してコミュニケーションを行っている。例えば私がクラギタの人間と話していて、頭が禿げてきたらとかいう話題で盛り上がっていたとして、「ブリームは嫌だなぁ」という。きっとそこで話しているクラギタの人間には通じるだろう。が、同じことを同じ文脈で会社の人間に言ってみても通じないだろう。コミュニケーションの不可能性は、相手にメッセージを伝えることはできないという事実に基づく。メッセージは伝わるのでなく、受け手が自分のコンテキストの中で解釈しているだけなのだ。同じ会話の流れで同じ言葉を口にしても、常に相手に伝わるとは限らない。そのコンテキストを、不特定多数のコンピュータネットワークの中でどう形成していくのか。コンテキストなしでただ知識だけをマネジメントし、創造していくことができるのだろうか。ってゆーか、今それを作れと言われてるんだよ、わしゃ!ああもう、どないせーゆーねん!? ってゆーか日付け変わる前に家帰らせろ!
きよが日記でコンピュータコミュニティ(?)について書いていたのを見て職業柄思うところも多く、少しだけ書いてみました。そう、笑いあってこその職場だし教育現場だよ、きよ。わしゃあもう疲れたけん、あんたぁ頑張っておくんなせぇ・・・。