2002年9月7日土曜日

生活とテンポ

 早すぎるテンポは、不自然に歪められたものなのだろうか。音楽のテンポは生活のテンポと密接な関係があるとよく言われる。バッハやモーツァルトの時代には、馬より早い速度を人が体験することはなかった。だから最も速いプレストでもせいぜいBPMで140といったところだ。モーツァルトのト短調シンフォニーだって、現在ではBPM150オーバーで演奏されるのも普通だが、当時はそれよりもっとゆっくり演奏されていた。

 今はどうだろう。車やバイク、あるいはそれよりもっと上の速度を経験できる現在、BPMが200を超える曲だって珍しくない。テンポはそのまま刺激と見るなら、昔のゆったりした甘ったるい刺激では、現代のテンポにはついていけないのかもしれない。もっとも、現代ではその刺激の強さはニアイコールでストレスの強さにもなっているようだが・・・。

 テンポが速くなった。世界が狭くなった。それだけで飽き足らず、今度は時間と空間を飛び越えるかのように、テンポ感なんてまったく無視してしまうかのように、仮想のネットワークをパケットが飛び交うようになった。移動する距離が速度に比例しない世界で、一体テンポの概念はどうなってしまうのだろう。距離と速度が結びつかないこの現実で。そしていつからか、ステップを忘れてしまったかのように、踊りはドタバタと不様になり始め、最後には踊ることすらできなくなってしまう。「踊らされるな、自ら踊れ、周りが見とれてしまうほど」とずっと言い聞かせてきたにも関わらず。踊れなくなるだけならいざ知らず、そもそも踊らされることすらできなくなる日も来るかも知れない。世界は縮まり、壊れていく。人はつながり、拡散していく。情報は膨らみ、感性は削られていく。つながる世界は、孤立している。

 何のことはない、ただこの場でやりたかったことは、誰のためでもなく、ただ知りたかったことは、一つ問いを投げかけてみること、次のステップをためらう自分にいつなったのかということ。一体いつから、踊ることができなくなったのだろうか。それとも元々、踊ることなんてできやしなかったんだろうか。

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