2003年7月31日木曜日

eric jonson再評価

 なんとなく久しぶりにeric jonsonのCDを聴いてみたのですが、いやアイツ凄いですね!まぁ他人につっこまれるまでもなく自分でも「今更何ほざいとんじゃ!?」という感じなのですが、浪人時代~大学時代前半の頃聴いてたときは彼の本当の凄さってよくわかってなかったと思うのですよ。「なんかスーパー・ギター・トリオの一人だし他の二人はあのスティーブ・ヴァイとジョー・サトリアーニだし、どの雑誌見てもeric jonsonはうまいって書いてあるし、聴いてみると確かにうまいし、凄いんだろう」くらいにしか思ってなかったのかも知れません。ちなみにここでいうスーパー・ギター・トリオはクラギタ的に有名なパコ・デ・ルシアとアル・ディメオラとジョン・マクラフリンの三人の方ではありませんので悪しからず。とにかくあの若い頃というのは元々聴いてたのはHR/HM系で、やれリッチー・ブラックモアだ、キコ・ルーレイロだ、クリス・インペリテリだ、マイケル・ロメオだと、あからさまに派手でテクニカルなギターを好んでいたものです。それとはちょっと音楽性の違う、どちらかというとジャズ/フュージョンに近い、それもその分野でも相当お洒落な部類に入るeric jonsonの音楽とギターを、当時の私が世間の評価(といってもその「世間」は相当にマニアックな「世間」なわけですが)という色眼鏡なしにいいと思えていたのかというのはかなり疑問なのです。

 そう考えると、昔と比べると私の音楽的なキャパシティはかなり広くなってるんだなぁ、と改めて感じます。冷静に考えれば大学時代から、クラシックギターから現代音楽、ケルト、アンデス等の方々の民族音楽、ボサノヴァ、バーデンパウエル、ピアソラ、マイケル・ヘッジス・・・、と種々の音楽世界を意識的に渡り歩いて、それぞれの分野で実際頑張っている人達とも触れてきたのはいい経験だったのかもしれないですね。色々な音楽を抵抗なく理解できるキャパシティというのは、単純に考えてそれだけで世の中の楽しみが広がるわけですから。

 ・・・で、eric jonsonです。ジミ・ヘンドリクスの再来と呼ばれ、エフェクターに使う電池の種類にまでこだわる(爆)という恐ろしいエピソードも持つ彼ですが、何が凄いってその独特の音となめらかなフレージングです。とにかく彼の音は他のどんなギタリストも出せない。例えディストーションをかけて歪ませていても、不思議と透明感のある音。聴けば一発で「あ、これeric jonsonが弾いてるな」とわかります。綺麗なんですよね、音が。エレキのギタリストであそこまでクラシックギターと同じ意味での音の綺麗さというものを意識して、しかも実践する人というのはなかなかいない。そして、どんなに速いフレーズを弾いても決して少しも音が潰れたり単調になったりブツ切れになったりしない、信じられないくらいなめらかなフレージング。速く弾くとどんなギタリストでも大抵音に多少のアラが出てくるものなのですが、eric jonsonの場合はそれがまったくない。もちろん、荒々しさが必要な曲で敢えて荒々しく弾くことは当然あります。が、例えば『Lonely in the Night』のラストで聴けるギターソロのように、音の綺麗さとなめらかさを崩してはいけないようなときは本当に少しも乱れない。流麗に、かつ表情豊かに、速いパッセージを気持ちよく歌うように弾き切ってしまうのです。あれは凄いですね。久しぶりに聴いてぞっとしました。「コイツ、・・・凄ぇ!」と。

 しかしあれですね、やはりどう考えてみてもジョー・サトリアーニとスティーブ・ヴァイとエリック・ジョンソンの三人でスーパー・ギター・トリオとしてツアーをやったというのも、音楽的に考えて組み合わせの理由がよくわからんのですな(苦笑)。ん~、でもそれを言い出したらパコとアルとマクラフリンのトリオも組み合わせに謎が多いのかもなぁ・・・。

2003年7月28日月曜日

本格的な日曜日

 変な言い方だけど、実に本格的な日曜日。朝11時くらいに起きて、一回目の洗濯機を回しながらのんびりと本を読み、洗濯物と布団を干してから昼食に出かける。パスタを食べて食後のコーヒーを堪能した後に買い物に出かけ、洗剤やら靴下やらを買い出して、家に帰って掃除機をかけ、二回目の洗濯機を回す。そして洗濯物を干したら便所や風呂場といった水周りを綺麗にし、食器を洗い、布団を取り込む。クリーニングに出していたスーツを受け取り、空気の抜けた自転車のタイヤを直し、軽くメンテをしてから自転車でふらりと散歩に出かけ、雨に降られる一歩手前で帰ってくる。そしてギターを取り出して、「やべぇ、シンプルエチュードNo.9面白ぇ(爆)」等と言いつつしばらく遠ざかっていたリハビリをする。米を炊いてレトルトのカレーを作り、カゴメの野菜ジュースを飲み、風呂を入れてバブを入れて、これから入る。きっと、風呂上がりには買って置いてある杏仁豆腐を食べ、読みかけの本をもう少し読んでから眠りに就くのだろう。実に本格的な日曜日。

2003年7月26日土曜日

時代とラーメン

 突然何を言い出すんだと思われるかもしれないけれど、何か最近のラーメンって、よくも悪くも「今」という時代のラーメンなんだろうなぁ、って思うのです。少し不思議な気もするのです。いつの間にか、「ラーメンの旨さ=油の旨さ」みたいな方程式ができあがってしまったような。いつの日か、こんな文章を書く日が来るような気もするのです。

「あの頃のラーメンは、とにかく油の旨さが勝負だった。世間で旨いと評判になるラーメンは、とんこつか、あるいは鶏ガラベースでもたっぷりと油をスープに浮かせなければならなかった。背脂が好きとか嫌いとかに関わりなく、とにかく雑誌やテレビなんかで紹介されるラーメンは皆、脂の旨味が効いたこってりしたものばかりだったから、自然おいしいラーメン屋を探そうと思うとそういった傾向の店にばかり行き着くことになる・・・・・・・」

 上記のような文章を、絶対書くような気がするのです。私でなくともあるいは誰かが。思えば、昔幼い頃に食べたラーメンって、そんなに背脂がたっぷりと効いたものって記憶に残ってないんですよね。いや、そりゃあるにはあったんでしょうけど、今ほど幅を効かせてはいなかったのも確かでしょう。そういや三条にある大油ラーメンって結構昔からあるみたいですが、あそこは今の方が流行ってるんじゃないでしょうか。高校の頃に食べに行きましたが、あれは結構キツかった・・・。当時あそこまで大量の油を使うラーメン屋は新潟では珍しかったのです。

 ちょっと話は変わりますが、油の効いたラーメンを食べる時、油に弱い人が犯してはいけない過ちというのがいくつかあります。その中でも盲点なのが「海苔のトッピング・追加注文」です。これが、意外とはまるのです。海苔というのは基本的に油をよく吸います。更に悪いことには、店によっては韓国海苔よろしく海苔の表面に油を塗っておくところもあります。それはそれで確かにおいしいのですが、油に弱い人がギトギトしたスープを飲むことに疲れて、その際にひとときの箸休めを脇に並んでいる海苔に求めたりしてしまった場合、・・・大変なことになります。そう、スープを吸ってしなっとなった海苔を口に含んで、まだ少しくらいはパリッとした感触が残っているのを期待しながらそれを噛みます。その瞬間、濃縮された旨味の効いた、濃い脂分が海苔から染み出して口の中に広がります。・・・そう、海苔はスープを吸っていたというよりは、むしろ油を多く吸っているのです。そして、不意を付かれて一気に胸が悪くなるのです。

 話を戻しますと、それがまぁいわゆる「今という時代のラーメン」なんだろうなと思うわけです。確かにおいしいんだけど、そもそも脂に頼り切ってしまっているし、脂というものの性質上基本的に万人受けはしない。万人受けはしないはずなんだけど、他に「うまいラーメン」の基準というものが見つからないものだから、本来脂があまり好きでない人でも「これがうまいラーメンだ」というわけで何となく食べて納得してしまうわけです。重い胃を引きずり、グズグズと灼ける胸を気にしながら。そういう時代なのでしょう。万人受けしないはずの基準が何故か万人受けして、本来それを許容できないはずの人達は、それに違和感を覚えながらも拒否感は示せずにいる。仕事でも人間関係でも、ラーメンの流行りでもそうなのだと思います。深夜にカップラーメンを食べながら、何となくそんなことを考えたのでした。

 ・・・『風の歌を聴け』にはなんて書いてあったっけ?

 深夜に冷蔵庫をあさるような人間にはそれだけの文章しか書けない
 そして、それが僕だ

 とか、そんな感じで書いてあったっけ?

2003年7月25日金曜日

トールモー・ハウゲン『夜の鳥』

 『勝手に読書週間』第三日目、今日はトールモー・ハウゲンというノルウェーの作家の作品『夜の鳥』をご紹介しましょう。この作品は元々は童話というか、俗に児童文学と呼ばれる範疇のものです。が、ミヒャエル・エンデの『モモ』がそうであるように、決して子供でないと楽しめないというような本ではありません。むしろ、大人が読んだ方が面白いんじゃないか、っていうくらい。

 この『夜の鳥』というのは児童文学としては結構グロいというか妙にリアリスティックというか、そんな変な作品なのです。魔法とかそういうのは一切出てこない。神経症になって働けなくなって、医者のところにも「行く」と言って行かない父親、夫のために本意でない職場で働いてるのだけど一日も早く自分の夢に向かって転職をしたい母親。そんなアンバランスな家庭と日常が舞台なのです。そんな離婚すら見えかくれする家庭で、少年ヨアキムが抱く不安感とそれが元となる恐怖の想像。それが『夜の鳥』なのです。

 この作家、文章が凄く綺麗なんですよ。綺麗と言うのは、表現がきらびやかだとか詩的だとか、そういうのではなく、無駄に装飾をしたり引き延ばしたりせず、必要最小限の適確な言葉で物凄くいきいきと情景も心情も描き切ってしまうのです。特別な言葉もトリルみたいな修飾もなしで。『夜の鳥』は全体的にモノトーン的な小説なのですが、トールモー・ハウゲンのその文章が小説世界に素晴らしいしなやかさと生命力を与えています。そこは訳の山口卓文氏の力も大きいのでしょうが。北欧文学というのはなかなか邦訳が出て紹介されるのも少ない分野ではありますが、この作品はお薦めです。ちなみに、私もまだ読んではいませんが(買ってはある)、続編の『ヨアキム』という作品もあります。

2003年7月24日木曜日

無人島に持っていきたい三冊

 『勝手に読書週間』第二日目です。今日は「もし無人島で一生を過ごすとして、その時三冊だけ本を持っていられるとしたら何を選ぶか」というテーマで、解説なし、問答無用でいってみたいと思います。私なら、次の三冊を選びます。

『風の歌を聴け』村上春樹
『鏡の中の鏡』ミヒャエル・エンデ
『勝者に報酬はない/キリマンジャロの雪』アーネスト・ヘミングウェイ

 次点としてシェイクスピアの『リア王』を挙げておきたいのですが、やはり上記三作品で決まりでしょう。少なくとも今の私には、ということですが

2003年7月23日水曜日

伊坂幸太郎『重力ピエロ』

 さてさて、今週は『勝手に読書週間』ということで、ここ最近読んだ本で印象に残った本を至極勝手に紹介させていただこうと思います。まず今日ご紹介いたしますのは伊坂幸太郎の『重力ピエロ』。以前この日記でも軽く引用をいたしました。この本は、とにかくタイトルにやられました。『重力ピエロ』。いきなり言われてもなんだかよくわかりません。挙げ句、書き出しの章のタイトルまで『ジョーダンバット』です。いよいよもってよくわかりません。一体どういう本なのでしょうか。

 「春が二階から落ちてきた」で始まり「春が二階から落ちてきた」で終わるこの小説は、分類するならミステリーに入ることでしょう。ですが、正直ミステリーとしては二流です。犯人や人間関係の裏付けはすぐに予想できてしまうし、犯人追跡の場面描写も凝ったものとは言えません。ですが、ミステリーとしてよりも純粋に小説として、この本は非常に面白いです。『ジョーダンバット』の最後に書かれているように、これは遺伝子と連続放火事件についての話なのです。ガンジーやら芥川龍之介やら、とかく色々な先人達の言葉や作品を直接的に引用しながら、遺伝子、性、正義、憎悪といったもの達を独特の言い回しで切って見せるこの作品は、読み始めたら止まらない不思議な求心力を持っています。突飛な言い回しや引用が、話が進むにつれすっと一つにまとまっていく不思議さ、予定調和のようでいて少しピントのずれたような、そんな疎結合的な言葉と物語の破片達。実に独特な面白さがある本です。ミステリー形式の哲学書というのは言い過ぎかもしれませんが。是非、一度読んでみてください。

2003年7月22日火曜日

人生への焦り

 ここ二ヶ月程、私の心は非常にイライラしていました。そして一人で色々なことにキレてみたり、(おそらくこれまでの人生で一番)今の状況に対してグチを言ってみたり、なんとなくふさぎこんだりしていました。これまで何故自分がそこまで不安定なのか、何が自分を追い詰めているのか、自分でもその根本的な原因がまったくわからないままにきていました。仕事が忙しくてイライラしていたというのもやはり多少はあるでしょう。が、決してそれだけではないでしょう。自分が感じる漠然とした不安感のようなものの正体が、これまではまったくつかめませんでした。

 が、なんとなくこの三連休で色々と考えてみるうちに、何となく、おぼろげに、その正体が見えてきたような気がします。それは焦燥感なのかも知れません。自分の人生に対する焦燥感。もしかしたら10年後、あるいは5年後なんかに、「俺の人生ってこんなもんか、案外つまらないもんだな」とか思う瞬間が来てしまうのではないか、という焦り。そうならないために、どうにか「今」をなんとかしなきゃならないという焦り。そうして知らず知らずの内に不安が募り、心がいびつになっていたのではないでしょうか。そりゃそうです。何しろ今の私には「つまらなくない人生」ってのがどんなものなのか、それが見えてないのですから。それなのに「つまらない人生だな」と思ってしまう瞬間を怖がり、避けようとしても、進むべき方向すらわからないんだから当然道にも迷います。そして、焦りだけが表面化していたのではないでしょうか。

 気付いたら、もう私も今年で26です。以前に比べ、自分の行動のあらゆることが自分の人生全体に対し予想以上の大きなコミットになることが多くなってきました。仕事を頑張るのも怠けるのも、続けるのも辞めるのも、誰かと付き合うのも別れるのも、です。それら一つ一つが今後の人生に対して非常に大きな方向付けを与えてくる、そんな微妙で重要な分岐点に来ているように思えてならないのです。だから一つ一つの決定に対し非常にナーバスになり、決定を下すのを先延ばしてしまうことすらよくあります。そして、ただ焦りだけが募り、漠然とした不安の中で抑鬱気味な日々を送っていたりするわけです。

 心のイライラの出元が(とりあえず)わかった(気になっている)わけですが、正味今のところ「だからどうしよう」とはあまり考えていません。どうしようもないんじゃないかな、とすら思ってしまいます。先のことなんてわからないし、焦ったってしょうがないとも思いますが、だからといって人生はよくも悪くも一度きり。「つまらなかったな」と気付いてからでは遅いのです。さて、どうしましょうか。さて、どうしましょうか・・・。

2003年7月20日日曜日

2003年7月17日木曜日

Aアン用『亡き王女のためのパヴァーヌ』編曲完了

 今年の定演のAアン、頼まれていた『亡き王女のためのパヴァーヌ』、やっと編曲が終了しました。相変わらずギリギリです(苦笑)。興味のある方はリンクをクリックしてみてください。例によってリタルダンド等の曲想は付けてないですし、後半大量に入ってくるハーモニクスも音の上では表現してない(オクターブ低い)ですが。

 パート割はプライム1st-3rdにBass、WBass、アルトは使わずに編曲しました。アルトはどうしても音の線が細くてキンキンしがちなので、柔らかな音で旋律を弾かなければいけないこの曲には不向きと判断しました。調はイ長調、原曲から1音上げています。音域の問題より、ハーモニクス等を使う際の融通と響きの点でデュアルテ編に倣ってそう変えてみました。ギターはやはり基本的にはシャープ2つ以上付く調の方が響かせやすいですしね。今年は曲が曲だけに去年のように激しく速いスケールが息の続かないくらい長く続く、というようなことはありませんが、さりげなく運指は結構厳しい所があります。特に3rdと1st。まぁ、今回は試しに私が全パート一応弾いてみたのでやってやれないこともないでしょう。結構指を考えないと難しい所もありますが・・・。後は体裁の調整と音の最終チェックをして終了です。さて、今年はクラギタの皆さんが、どんな風にこの曲を仕上げてくれるのでしょうか。非常に楽しみです。皆さん、頑張ってください。

2003年7月14日月曜日

2003年7月13日日曜日

沈み酒

 人は何故、酒を飲んでうつむくのでしょう。いや、そりゃアルコールは所詮ダウナー系だからな、とか科学的に理由をつけようと思えば正直いくらでもつけられますが、どうもそれでは頭が理解しても精神的に理解できず。飲んで、皆と別れてからうつむくことがいつものこととなってしまっているような私には結構宿命的な問いなのです。人は何故、酒を飲んでうつむくのでしょう。

2003年7月8日火曜日

都会の夜の天の川

 今日は七夕です。つまりはこのHPの開設記念日ということになります。このページも早足掛け五年間。結構しつこく続けさせていただいております。立ち上がっては消えていくHPの多いインターネットという社会の中で、個人のHPで五年間というのはもう長寿の部類に入るのではないかなと勝手に悦に入っています(笑)。これもちゃんと足を運んでくれて、時にBBSに書き込んだりメールやら何やらでHPの感想なりを伝えてくれる皆様がいたからこそのことで、大変感謝しております。最近は忙しさにかまけて内容がやや薄くなり気味ですが(苦笑)、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 ・・・と、殊勝に月並みなご挨拶を述べさせていただきましたが、実は今日この七夕の日、HP開設五周年というこの日、今日は下手したら今までの人生で最悪じゃないか、っていうくらいのくだらねぇ酒を月曜から飲んできました。いえ、決して酒自体がまずかったわけではないのでしょう。ただもう、あの場が・・・。はぁ、くだらねぇ・・・。なんであれが決起集会なんでしょうか。所詮今回のプロジェクトなどその程度、ってことでしょうか。決起集会のはずなのに、何だか一気にモチベーションも下がってしまい、「こんなんだったら家帰って編曲するなり本読むなりしてた方が100万倍はいい、ってゆーか会社で仕事してた方がよっぽどいい」くらいのノリで非常にブルーになって帰ってきました。深夜0時を回って家に着いた時、「何で俺は今日こんなに遅いんだろう?」と、いつもに比べ遅いわけでもないのになんだかやけに憂鬱に感じましたからね。はぁ、くだらねぇ酒を飲んだ・・・。

 話を七夕に戻しましょう。たまにはそんな、ちょっとセンチに過ぎるような話を扱ってみるのもいいかもしれません。まぁ、私が語ってセンチになるか、というのはまた別問題なわけですが。ご存じの通り七夕は、お互い愛しあいながらも天の川を隔てて輝いている織姫と彦星が、年に一度だけ天の川を渡って邂逅を果たせるという、今でいう所の遠距離恋愛的な夜空の伝説です。私達の視点からすればお互い見える位置にいるような二つの星は、彼らからすればきっと絶望的なほど離れているのでしょう。

 ただ、東京で夜空を眺めていても、彼らを決定的に引き離しているはずの天の川など、ただの一度も見えた試しがありません。ミルキーウェイというその名の通り、暗い夜空に薄く白くかかった静かな光の流れは、明るすぎる東京の空では僕らの世界の光にかき消され、まったく飲み込まれてしまっているのです。では、隔てるものがなくなった織姫と彦星は、一緒に幸せに暮らしているように見えるのでしょうか。哀しいことではありますが、実はそれもそうとはとても見えません。そもそも、織姫と彦星すら下の世界の人工的な光の闇に消されてしまい、僕らの目には見えないことがほとんどなのです。世界を明るくしようとした光が、皮肉にも夜の空を暗く包み込む闇になる。どうあがいてみても光には常に影が付きまとう、ということなのかもしれません。暗い光に包まれながらも時折姿を見せる織姫と彦星は、枯れ果てた天の川の河畔で、やはり光に飲み込まれてしまった他の周りの星達のことを偲びながら、ただ孤独に輝いているようにも見えるのです。そんな二人は、この七夕の夜に出会うことができたのでしょうか。流れなき枯れた天の川を渡って、荒涼とした、妙に明るい白くぼやけた夜空の大地に歩を進めて。七夕伝説自体ロマンチックながらも悲劇的な要素の強いお話ですが、現代の七夕伝説はもう純粋な悲劇でしかないように思えます。

 いまだに鮮烈に焼き付いています。幼い頃、実家の車庫の屋根に昇って、夜空を眺めた時の風景を。灰色の空でなく、暗く、何もなければただ不安だけを思い起こさせるような真っ黒な空に、白く静かに瞬いている星が鏤められるように鎮座しているその風景を。そしてその中を、本当に白く薄く、微かに揺れてたなびくように流れている天の川を。今思えば、年に一度とはいえその川を渡って出会う織姫と彦星の物語は、確かに悲劇というよりは美しく儚い夢物語という気がします。きっと、それは哀しい宿命の中でも希望に包まれたお話だったのでしょう。今となっては、こっちが気恥ずかしくなってしまうような夢物語。逆に憧れすら抱いてしまいそうな。ねぇ、渡るべき天の川は今も存在するのでしょうか?

今日の一言:『暗い夜空が、一番明るい』

2003年7月7日月曜日

伊坂幸太郎『重力ピエロ』より

 ピエロは重力を忘れさせるために、メイクをし、玉に乗り、空中ブランコで優雅に空を飛び、時には不格好に転ぶ。何かを忘れさせるためにだ。

「そうとも、重力は消えるんだ」

伊坂幸太郎『重力ピエロ』より

2003年7月3日木曜日

焦り

 最近は(またも)仕事が忙しく、帰りも遅いので書こうと思っている文章もなかなか書けず、本も通勤中に読むくらいでなかなか遅々として進まず・・・。時間がほしいなぁ、と思うのです。考え、それを表に出すために沈める時間が。疑問を持たなくなったら、終わりなのです。

2003年7月1日火曜日

無題

 全ての矛盾する比喩を当てはめろ。世の中はそのようにできているのだから。