2002年5月10日金曜日

Destiny

 久しぶりに自宅のMacの中に眠っているMP3を発掘し、片っ端からランダム再生をかけてみました。私がMP3を収拾したり作ったりしていたのはもう3、4年も前の話になるので、当然かかるのもその当時の、今となってはちと古い感じの曲ばかりです。例えば今流れているのはFavorite Blueの『Close My Love』。さぁ、何人の人が覚えているのでしょうか!? The Brilliant Greenとか絶妙に懐かしいところも揃っています。そんなこんなで、色々「おお、あったなそんな曲」とか思って聴いていると、時にはその当時本当に好きだった曲なんかも出てきます。私にとってそんな曲のひとつはMy Little Loverの『Destiny』でした。

 この曲は愛しい人への想いを歌ったラブソングといえばまぁそうなのですが、表立って現れる懐古や後悔、寂しさや儚さといったようなものと対立するように、ときたま何よりも強い希望や喜びのようなものも感じ取れる気がする不思議な曲なのです。全体の曲調も明るいとも暗いともつかず、ただ控え目な寂しさだけがずっと流れている。同じMy Little Loverの曲『Hello Again』も同様の印象を受けますが、その寂しさ自体が今にも風に吹き飛ばされそうなくらい儚いのに、何故か自分の体を巻いてゆく風のようにいつもその存在を感じているような不思議な感覚。そこに私は心ひかれるのかもしれません。

 『Destiny』、直訳すれば『運命』となります。『運命』とは本来、考えれば考える程に強烈な言葉です。それは人間の力の及ぶ限界を指し示す言葉でもあり、限りある人間の力をそっと、あるいは力強く、手助けしてくれる力を指し示す言葉でもあります。ベートーベンは同じ『運命』という言葉を、その強烈さを象徴するかのように激しく打ち出して表現しました。「運命はかく扉を叩く」のだと。しかし、My Little Loverの『Destiny』からはそういった運命の持つ凶暴なまでの力強さ、あるいは人間の力の限界のような悲劇性は感じられません。それはどうしてなのでしょうか。

 私は別に運命論者というわけではありませんが、ときたま『運命』というものの存在を感じることがあります。大体それは既に起きた事柄に対する後付けのものであるのですが。私に言わせれば、『運命』というものは決して強烈なものばかりではありません。むしろ、日常の中にいつもひっそりを息を忍ばせているものだと思います。例えばよく『運命』という言葉が引き合いに出される人と人との出会い。それだって、何も特別の恋人とか、恩師とか、親友とか、そういったものでなくとも、常にそれはある面において運命的なものなのではないでしょうか。私と今これを読んでいるあなたが出会う確率だって、一番単純に考えても地球の人口分の一となるわけです。そりゃ物凄い確率です。宝くじだってもうちょっと当たるでしょう。そう考えると、運命というのは何も特別なものではないのだとも思えます。日常の中に息をひそめて、風のように、感じながら、あるいは気付かないでいても、私達の存在を導いているのかもしれません。My Little Loverの『Destiny』は、そんな運命を表わしているようにも思え、また、よくも悪くも、人間の力の届かないところで、希望も絶望も連れてくる運命を歌っているからこそ寂しさも希望も感じられるのではないかなと思ったりもします。ただ、運命という言葉はやはりどこかしら寂しさや、それが大きくなると悲しみや絶望の色を強く出してくるもののようにも感じます。それは何でなんでしょう。寂しさと希望と、そのどちらもが感じられるMy Little Loverの『Destiny』ですら、全体の空気は寂しさや儚さといった感覚におおわれているのです・・・。

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