2004年10月19日火曜日

命の水

 書くことも随分たまってきたので、初の試みとしてここから時系列を遡って書いてみよう。記憶は数日も経てばもう鮮明さを失っていく。色褪せた記憶を無理に呼び起こすよりは、少しでも新鮮なものから書き留めておくことは案外悪くないんじゃないかなと思う。

 嬉野の温泉街で命の水に出会った。日帰り温泉で前日の運転疲れをほぐした後に、昼食を求めて立ち寄った店でのことだ。元々は豆腐料理がおいしい店として紹介されていたその店。昼時も過ぎたオフシーズン平日の嬉野温泉のその店は、私と彼女以外の客もなく、奥で料理を作りながら話す店主と奥さんの声が、そこから一番離れた席に座っている私のところでもよく聞こえるくらいに静かだった。料理を待っている間、お客さんからの寄書帳のようなものに目を通していたら、至る所に「命の水」という言葉が出てくることに気がついた。とろけるような豆乳仕込みの湯豆腐と、新鮮なちらしをいただいた後に、店主さんにその「命の水」のことを彼女が聞いてみる。他に客もいなかったせいもあるのだろう、店主はその水の効能について、早口で饒舌に、時に私には聞き取りづらい佐賀弁で話してくれた。店主としてはそれは料理の水として汲んで処理して使っているだけで、特別薬効を意識しているわけではないこと。でも交通事故で失明しかけた自分自身や、その水を分けた人達から糖尿やアレルギー、果ては癌までもが治ったという話が口コミで広がり、いつの間にか「命の水」と呼ばれるようになったこと。雑誌やテレビに出てから、色々と問い合わせがあるけど決して売ってはいないこと。けれども海外からも来る「命の水」を求める人達に、その水をあげると必ずと言っていい程「またほしい」と問い合わせがあること。宣伝もしたいのかもしれないが、店主は終止上機嫌にそれらのことを語ってくれた。そしてねだったわけでもないのに、私達に空きペットボトルに入れた「命の水」を分けてくれた。

 会計を済ませて店を出て、車に乗り込んで「思わぬものをもらったね」と彼女と話していたら、店から店主が外に出て来た。そして私達の車の方に歩いてくる。手には「命の水」が入ったペットボトルを一本。そして車のところまでわざわざ来て、「特別に一本ずつあげますよ」とそのペットボトルを渡してくれる。正直、その「命の水」の効能は本当のところどうだかわからないけれど、その店主の暖かな表情と、他に客がいなかったとはいえわざわざ店から出て車に乗っている私達を探してまで一本の水を届けてくれる親切さに、とてもいい気持ちになった。それだけでその500mlのペットボトルに入った「命の水」は、そう、本当に「命の水」なのだなと思えた。人の暖かみは、命あってのものだから。

 「"オマエは他に何もないんだから、この水だけでもあるならそれで人様の役に立て"と兄が言うんですよ」と店主は何度も繰り返していた。販売はしていない、一日20本しかできない、店主に直接手渡してもらわないともらえない「命の水」。少なくともそれは、命の暖かさを伝えてくれるのではないかなと、ふとそんなことを思った。

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