2007年1月5日金曜日

『失われた町』 三崎 亜紀

 大晦日の日に整体を予約していたのだが、12時からだったのを間違えて11時に下山(自宅から日吉の街に下りることを我が家ではこう呼ぶ)。整体が終わったらすぐに帰って大掃除をするつもりだったので時間を潰すための本もなく、東急の本屋で急遽購入したのがこの三崎亜紀の『失われた町』だった。デビュー作『となり町戦争』がいきなりブレイクした作者の、短編小説集を一つ挟んでの2作目の長編小説だ。実はこの作者なかなかのお気に入りで、これまで出した3冊は全て読んでいる。『となり町戦争』は、正直おまけして70点ってところだったのだが、次の『バスジャック』がよかった。ので、今回も購入してみた。

 三崎亜紀の小説にはいつも、現実世界をベースにその世界のネジを何本か外して前提をずらしたような、突飛な世界設定がある。『となり町戦争』では"目に見えないが確かに行われているらしいとなり町との戦争"だったし、『バスジャック』中の短編『動物園』では"動物園で本物の動物を飼育して公開するのでなく、一種の幻術のようなもので観客にそこに動物がいるかのように見せることを職業とする人達"、『バスジャック』では"ブーム化し、形式化された、ある種日常を巻き込んだ競技的なバスジャック"だったし、今回の『失われた町』では"突然中に住む人達を理不尽にすべて消滅させてしまう町"だった。常に、現実世界の中から描きたいテーマを見つけると、それを描きやすいようにまず世界の方をずらす。三崎亜紀はそのような手法を使う。その突飛な世界設定から、"SF作家"と言う人も多いようだが、まぁそれは誤った指摘だろう。大体"Science Fiction"では、どう見てもない。藤子・F・不二雄の言葉を借りて、「すこしふしぎ」の略としてのSFならいけるだろうが。

 というわけで『失われた町』だ。ある程度定期的に(作中でうかがい知れる範囲では30年周期)発生する町の消滅。町の意思によって消滅順化させられ、町から逃げ出すことも外の人にS.O.Sを伝えることもできない中の住人は、ある日理不尽に町からすべて姿を消す。そうして消滅した町は、消滅の余波による汚染の拡大を避けるために管理局という組織によってきれいに歴史からも地図からも個人の持ち物からも消され、初めからなかった町として、空間的・時間的な空白地帯として扱われることになる。町の外に住んでいた残された遺族は、消滅した人々のために悲しむことすら禁じられ、消滅に関わるすべての事柄は"穢れ"として忌避されている。そんな中で、管理局の一部と、残された何人かの遺族が力を合わせて次の町の消滅を食い止めようとする。あらすじをざっと書くならそんなストーリーだ。ネタバレになるので控えめに書くが、管理局の重要人物と、母親を消滅で無くした子供、恋人を無くした女の子、消滅からの生き残りの子供・・・、多様な人物が様々な角度から町の意思である消滅に立ち向かい、やがてその人間相関がグルリとつながって一つの輪ができあがっていく展開は読んでいて気持ちがいい。

 全体を貫くのは、"意思は受け継がれる"というシンプルなテーマ。登場人物達は先に消えた、あるいは亡くなった人達の意思を受け継ぎ、自らの心を固めることで世間から蔑まれる消滅、ひいては町との闘いを続けて行く。住人の理不尽な消滅と悲壮なまでの意思が全体を支配する割に、重苦しくなく最後まで読めてしまうのは作者独特の空気のせいだろうか。

 まぁ、正直アラが目立つ作品でもある。登場人物が多い割にページ数が少なく、いくらか取って付けられたような印象を受けるエピソードもあるし、視点も散漫になっている。複数の人物の視点による連作短編と考えるには章ごとのつながりが強すぎる(連作短編とするなら途中のどの章を切り取ってもそれ一つで短編として機能するべきだ)し、一つの長編小説として考えるには視点に統一感がない。

 おそらく、作者はもっと長い話にしたかったのではないだろうか。端々に見える中途半端に終わるエピソード達を見ていると、どうもそんな気がする。それをあまりに長すぎるとエンターテイメントして重すぎるからか、商業的な理由からか作者の気力的な理由からかは知らないが、半ば無理矢理短く詰めた、そんな印象を受ける小説だ。そういう意味では『となり町戦争』の方がまとまりはよい。

 とはいえ読んでいて面白い小説であることは確かだ。久し振りに一気に読んだ。多少センチに過ぎるきらいはあるものの、舞台設定も、最初に見せられた結論から次々と過程が示されていき、登場人物の相関が少しずつ形成されて行く展開もいい。少しずつ小説中の世界に対する疑問が氷解していく面白みにつられて退屈しない。心の中の町という概念は、村上春樹の名作『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を連想させる。『失われた町』はあそこまで内面深くは潜って行かないけれど、逆にそのより表層近い感情的な部分をフューチャーしている辺りがこの小説のわかりやすさにつながっているのかもしれない。村上春樹が海外で知られるようになって以降、アメリカの方ではエイミー・ベンダージョージ・ソウンダース等の作家を始めとする、こうした日常から少しずれた不思議な舞台設定を多用するマジカル・リアリズムともいうべき潮流が形成されつつあるそうだが、その流れを日本で体現するならこうなるんだろうなと、そういう気がする。そういえば、村上春樹の流れを汲んでいるように思える作家は日本には意外といない。


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