2009年4月5日日曜日

心をつないだ名曲達

 先の日記でも書いた通り、FY2008は8月以降なかなか洒落にならない忙しさだったわけだが、その忙しさに逆に呼応するように私の心に残り、時に折れそうになる心をつなぎ止めてくれた2つの名曲がある。今日はそんな名曲達を、感謝の念とともに改めて振り返ってみようと思う。

 秋も深まる晩秋の11月頃から年明けにかけて、私のiPodでヘビーローテーションだったのはブラームスの交響曲第4番。この曲は第一楽章からまるでため息そのもののようにもの憂げなヴァイオリンの旋律から始まり、晩秋に寂しく舞い落ちていく落ち葉のような管と弦の掛け合いに続く、交響曲という言葉からイメージされる勇壮さや外向性とは程遠い、寂寥と哀悼の音楽だ。もちろん両端楽章のコーダなんかは楽曲的にも相当盛り上がるが、ベートーヴェン的な苦悩から歓喜へといった趣ではない。憂鬱から苦闘へ、といった感だ。要は、結局救われない(苦笑)。しかもこの交響曲、最終楽章はパッサカリア形式で書かれている。パッサカリアやシャコンヌといった執拗低音を持つ形式に私が持つ特別な感情は以前にも書いた。このことがさらに私がこの曲にのめり込む要因となったのは間違いない。

 この頃は仕事に全く光が見えず、右手で新年度カットオーバー予定の大規模プロジェクトの指揮を振りながら、左手でいくつかのトラブル案件の消火・押え込みをしているような状態で、精神的にもお世辞にも明るいとは言えない時期だった。何しろ左手側は元々救いがないにせよ、右手側ですら成功のイメージがまったく描けずにいるような状態だったのだ。晩秋から冬にかけてという季節と、そんな仕事の状態から来る精神状態が、この最後まで徹頭徹尾悲哀をまとった交響曲に妙にマッチしてしまい、この頃はこのブラームスの4番を非常によく聴いていた。

 演奏は最初の頃はカルロス・クライバー/ウィーンフィル、その後色々と試行錯誤をした後に、年末辺りに辿り着いたのがチェリビダッケ/ミュンヘンフィルだ。最初にこの曲のよさに気付かせてくれたのはカルロス・クライバー盤。クライバー特有の颯爽と前進しながらも自在に伸縮するテンポが、ともすると湿っぽくて地味に聴こえがちなこの曲を、強い求心力で聴く耳を引きつける音楽に仕上げていた。それでいてこの曲の持つメランコリックな美しさが微塵も損なわれていないのがさすが。

 それから色々とこの曲は買い集めて、今では10近い演奏を持っているが、他と比べて圧倒的な衝撃と感動を与えられたのがチェリビダッケ/ミュンヘンフィル盤。1986年、東京文化会館でのライヴ盤だが、ミュヘンフィル自身がチェリビダッケと残した最高のブラ4と認めている演奏だ。EMIからチェリビダッケの全集が出る際、ミュンヘンフィルはこのライヴの録音が残っているか主催者側に問い合わせたものの残っていないという回答が返ってきて、それで仕方なく全集版では別のライブを選んだらしい。その後、当日のマスターテープが発見されてリリースされたという曰く付きの音源だ。

 この演奏はブラ4に内包されているすべての要素が完全に昇華された凄まじい名演だ。第一楽章の入りの深刻に過ぎることはない、適度な憂いを帯びた艶っぽいため息の音色、散り行く管と弦の揺らめくような美しさ、全編を覆う哀しみと途切れない緊張感、そして両端楽章のコーダでは「フンッ!」とうなり声を上げながらオーケストラを爆発させるチェリビダッケ。私にはこの曲でこれ以上の演奏は思いつかない。だから、この演奏に巡り会って以後はほとんどこの曲はこの演奏で聴いている。後でもいくつかCDを買ってはみたものの、やはりこの演奏には敵わない。他に聴くとしたらやはり解釈が全く異なる前出のC.クライバーくらいか。

 余談ではあるが元々レパートリーが極端に狭かったC.クライバーは、89年以後は指揮台に立つ数少ない機会の中でさらに同じ曲ばかりを演奏するようになる。その中の一つがこのブラームスの4番だった。それは単純に得意ということもあるのだろうが、恐らく終世、父であるエーリッヒ・クライバーとの比較に内心怯え、音楽そのものに対しても非常に神経質になっていった彼の悲哀の心中が、この憂いを纏った曲調に投影されているように思えてならないのは私の勘ぐり過ぎだろうか。

 次に年明け1月中頃から3月中頃、つい最近までそれこそ何度も執拗に聴いていたのがバルトークのピアノ協奏曲第3番だ。バルトークの絶筆の傑作(といっても残されたのはわずか17小節のオーケストレーションのみで、ほぼ完成していた)であり、白血病を患っていた彼が自分の死後もピアニストであった彼の妻がこの曲を演奏することで生計を立てていけるようにと願って作られた。

 バルトークの複雑に入り組んだリズム構成や、野趣に溢れ、時に原始的とすら思える程の特徴的な音階構成は元々好きだったのだが、私がこの曲で特に強く惹かれたのは第二楽章だ。ゆったりと、澄んだ弦の響きで始まるこの楽章は、一言でいうなら非常に美しい。ただし、その美しさは手放しに喜びに満ちたものではなく、むしろ滅びを予感させる。優しいが冷たい、破滅的な美しさだ。

 控えめに、透明で神々しく響くオーケストラの合間に、決して音数の多くないピアノが歩を進むのをためらうように、一音一音ゆっくりと美しい旋律を歌い上げていく。その様は、春が来る直前の冬の終わりに、春の兆しが感じられるよく晴れた白い静かな日の光の中、髪の長い40代くらいの美しい女性が白い壁に囲まれた病室で死の床につきながら窓の外を眺めている、そんなイメージを私に想起させずにはいられない。これから訪れる希望と、その先触れの美しい日差しの中、ただその中にいる人だけが絶望に包まれている。そんな悲しいイメージだ。外の世界に広がる希望と、自身の中で広がる絶望を、諦観とともに同時に静かに見つめる姿。時折諦観が薄れて苦悩が見え隠れするその人間味。悲しい言い方になるが、この曲には別れを前提とした切ないまでの愛がある。だからこそ純白の美しさと、悲しさを兼ね備える。

 この頃は左手で処理していたトラブル案件は落ち着きを見せ、新規大規模案件にやっと集中できるようになってきてはいたものの、様々な大どんでん返しの連続でその対応に昼夜休日まで追われ、プロジェクトの完遂という点に対して非常に不安を持っていた時期だ。「ここを乗り越えれば・・・」という山を一つ越えるか超えないかといった辺りで、必ず次の新しい山が見える。それこそ「あの坂をのぼれば、海がみえる」だ。「だがしかし、まだ海はみえなかった」。あといくつ山を超えればいいのか、と憔悴しつつも、「でもまぁこの山を越えれば・・・」という希望も見え始めた時期。ちょうどその2月頃に、この曲をよく聴いていた。

 演奏はソリストがゲザ・アンダ、指揮がフェレンツ・フリッチャイの盤。両者とも作曲者であるバルトークと同郷。それ故か曲に対する理解・思い入れの強さが伝わってくる。フリッチャイは元々バルトークの演奏では定評があるが、特にこの演奏は自身も白血病に倒れ、病から復帰した直後のレコーディング。同じ病に倒れた同郷の士の最後の作品に対して、並々ならぬ思い入れがあったことは想像に難くない。作曲者が命を賭して書いた曲に、同じく命を賭して挑む指揮者の凄みがここにはある。

 それとこれも余談ではあるが、この曲の第二楽章は透明に澄んだ弦の和音が非常に印象的だが、フリッチャイの演奏で聴いていると私にはその響きがまるで雅楽の笙のように聴こえる。この曲は全体を通して教会旋法で書かれているが、当然西洋の教会であって日本の神社ではない。調べてみるとどうやら確かに雅楽の和声と教会旋法には共通点があるらしい。教会音楽も雅楽も洋の東西は違えどどちらも神に仕える音楽。この共通点が文化交流の結果として生まれたものなのか、あるいは自然発生的に出来上がった共通点なのか、そこは音楽とそれが聴き手に与えるイメージという面で非常に興味深いものがある。いつか調べてみたいものだ。

 前の日記で「私は今回も生き延びました」と書いたわけだけれど、この2曲がなければ最後まで心が折れずに持っていたかどうかはわからない。体は、別問題だ。これまで何度も修羅場を経験してきたが、その度、音楽に救われる。私は心の支えとして宗教は持っていないが、信じる支えという意味では音楽がその役割を果たしてくれているように思う。それは癒しではない。支えだ。大体癒しなら、もう少し明るい、やんわりとした曲を選ぶんじゃないだろうか。結局のところ、私にとって音楽とは共感だ。共感による自己肯定が支えとなる。例えそれが暗い状況の肯定でも。暗い状況から目をそらす癒しではなく、暗い状況を肯定する共感が、結局最後の孤独を救う。

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