2003年10月24日金曜日
芸術性と大衆性
少数なるものを満足せしめよ
シラー『選択』より
・・・元々二行詩なので、上記に引用した二行目の後に一つのフレーズを入れてこの詩は終わります。「多くの者を喜ばすことは悪しきことなり」と、この詩は結ばれます。大衆の喝采と真の芸術は両立し得ないという、崇高な地平。確かに音楽でも何でも、より高度で複雑なレベルのものを理解するにはそれなりの資質なり訓練なりが必要だということは(以前にもこの日記で紹介しましたが)認知科学的にも証明されています。ということは、なるほど専門的な訓練を積んだわけでもない人間が大部分であろういわゆる大衆に理解できるものは「高度で複雑」なものではないということでしょう。「真の芸術」というものが「高度で複雑」でなければならないとするなら、「大衆の喝采と真の芸術は両立し得ない」というテーゼは科学的に証明されてしまうことになります。その論理を諸手を叩いて歓迎したい「崇高な」方々も世の中には多くいらっしゃることでしょうし、「理解されない芸術に意味はあるのか」と物申すか、あるいはそこまで理屈っぽくなくても一般受けも大事だと仰る方も相当数いらっしゃることでしょう。どちらを否定するわけでもありませんが、私はそしてこう言います。
まず、始めから大衆受けというものを狙って作るもの、それは確かに真の芸術たりえないでしょう。可能性はゼロではないですが、限りなくゼロに近いでしょう。ならば高度に専門的な訓練を積んだ識者達にしか理解し得ないような難解なものを作ることが真の芸術になりえるのかというと、それも当然そうとは限らないでしょう。確率的には前者より幾分はマシかもしれませんが。敢えて大衆を「人的」なもの、高度で崇高なものを「神的」なものと二極化して定義するとすると、その時点でどちらかの立場に立ったものはもう片方の立場を捨てることになります。それは等しく表現の帯域を狭めて限定することに他ならないのです。大衆受けを狙うなら高い認知能力を必要とするような技法は使えないし、それを悪とするならわかりやすいシンプルな手法を捨てることになります。「人」と「神」は絶対的な壁に隔てられることになるわけです。別にこだわる必要はないんじゃないかなと思います。「人」としての芸術にも「神」としての芸術にも。作品が求めるもの次第で、「人」にも「神」にもなれるし抗える(特に時間芸術においては一つの作品の中でそれが遷移することすらあり得る)、そんな柔軟さ、奔放さが真の芸術には必要なんじゃないかなと思うわけです。どちらかにこだわることはそれだけ可能性をせばめることになるわけですから。まぁ、ザックリ言うなら「受けるも受けねぇも気にすんな」ってことです(?)。
・・・しかし「人」と「神」の間を自由に行き来することが真の芸術への近道だとするなら、カルト宗教のトップとかが一番真の芸術に近い位置にいるということでしょうか。信者の前で「神」になり、「人」としての欲望も望むままにし・・・。う~ん・・・(苦笑)。
2003年10月22日水曜日
2003年10月20日月曜日
哲学的な感性の音楽 - ステファノ・グロンドーナ
とはいえステファノ・グロンドーナです。かのオスカー・ギリアの高弟であり、85年にとあるインタビューでセゴビアが「最もお気に入りの弟子の一人だ」と名指ししたという(ちなみに同列に並べられたのはジョン・ウィリアムス、オスカー・ギリア、そしてアリリオ・ディアス)知る人ぞ知る名ギタリストです。まぁ世界的な評価の割に日本ではやけにマニアックというかあまりに知られていないだけなのですが。私も彼のことは知らなくて、昨年の5月にマンゴレの熱い誘いを受けて行った『音楽の絆フェスティバル』でグロンドーナ氏のマスタークラスを聴講し、その堅実で流麗な技術と、豊かな音楽性を裏付ける哲学的な思索と確かな感性に魅力を感じ、また他に類を見ない「哲学者」的なギタリストという印象から、その後も非常に興味を持っていたのです。しかし彼のCDってなかなか売ってないんですよ。なんとAmazonでも見つけられなかった・・・。それがタワーレコードでほとんど偶然に見つかったので、給料日前の苦しい懐具合にも関わらず思わず衝動買いしてしまいました(苦笑)。いいんです、CDには2種類あるんです。買おうと思えば後で買えるCDと、見かけた時に買っておかないともう二度と出会えないCDと。
今回入手したのは前述のバッハ、スカルラッティ、フローベルガーの曲を集めた『BAROQUE IMAGES』、そして歴史的価値の非常に高い12本のヴィンテージギターを弾き分け、タルレガ、リョベート、セゴビアの作曲・編曲物を中心に編纂した2枚組『鳥の歌』です。ステファノ・グロンドーナはギター史やギター製作の研究家としての顔も持っており、『鳥の歌』では演奏家としての彼と研究家としての彼が両方楽しめます。曲に合わせてA.トーレス(しかも様々な年代の)やブーシェ、ハウザー他計12本の歴史的名器を弾き分けていくこのCDは、曲や演奏も素晴らしい上に様々な名器の音色も堪能できるという素敵な1枚です。しかし、このCDを聴く人は「やっぱり同じ人が弾いても楽器によってこんなに響きが違うんだな」というテーゼと「やっぱりどんな楽器を弾いても結局はその人の音になるんだな」というテーゼ、そのアンビバレンツに苦しむ羽目になりかねません(爆)。いや、本当不思議なんですよ、これが。ともあれ、ギター史やギター製作史に対する深い理解を持った上で一曲一曲に注がれる深い洞察、内省的な奥行きが聴く程に伝わってくるこのCDはかなりお薦めです。この音楽を楽しむためなら多少アンビバレンツに苦しむくらいはいいじゃありませんか(?)。ちなみに、もう1枚の『BAROQUE IMAGES』の方は今聴いているのですが、こちらも楽器はA.トーレスです。敢えてバロックをトーレスで弾く意味は?という疑問はさておいて(トーレスはいわゆる19世紀ギター、収録されている作曲家が生きたのは17世紀)、フローベルガーという作曲家をギター編で聴けるのはそれだけでなかなか珍しいことです。
・・・というわけで、先のジョン・ウィリアムスのコンサートもあり、ここ数日私の中ではギター熱に相当火がついてしまっているとのことです。
2003年10月19日日曜日
ジョン・ウィリアムズ@すみだトリフォニーホール
客電が落ち、ジョンがステージ上に現れてバッハのリュート組曲第四番BWV1006aからコンサートが始まるわけですが、私がまず最初に思ったのは「ちょっと待て、今着てるその服、絶対何かのCD(『ザ・ギタリスト』?)のジャケットで着てたヤツだろ!?」ということ(笑)。大抵の場合ステージ上にいる人物とCDのジャケットに写っている人物というのは印象が微妙に異なるものですが、ジョンに限ってはまったく印象が同じでした。そして演奏です。どうやら彼は極端なスロースターターらしく、BWV1006aの『プレリュード』は結構何度も音外してました(苦笑)。同組曲の『ロンド風ガボット』くらいから切れ始めて、前半の最後グラナドスの『アンダルーサ』、『ゴヤのマハ』、アルベニスの『朱色の塔』、『セビリア』と続く流れは凄まじかったです。『セビリア』カッコよかったなぁ・・・。
ジョンの演奏を聴いていて思ったのは、とにかく右手のタッチがしっかりしているということ。マイクなんてなくても生音でこのすみだトリフォニーホールを掌握できるんじゃないか?と思えるくらい骨太な力強い音が出るのです。そしてハーモニクスが異様にデカイ。実音とほとんど音量差のないハーモニクスがバッツンバッツン鳴り響く様はかなり圧巻でした。しかし彼の右手、弾いてる時は指の第一関節から先がほとんど見えない位置にいるんですよね。ラスゲアードの時ですら指先が客席の視界に入ってこない。それだけ無駄の少ない小さな動きで弦を弾いているということなのでしょうか。
後半は『ザ・マジック・ボックス』収録の曲達から始まります。もうこの頃にはジョンはかなりノリノリで、アフリカ音楽であるこれらの曲達を凄く気持ちよくリズミカルに聴かせてくれました。CDで聴いてると端正でソツのない演奏といった印象の強いジョンですが、実際この『ザ・マジック・ボックス』のようなアフリカの音楽や最新作『解き放たれた悪魔』に収録されているようなベネズエラ音楽での演奏を生で聴いてみると、端正でソツがないというよりは気分屋でノリ重視といった感じさえ受けます。のってくると止まらないってタイプでしょうか。そして『舞踏礼讃』です。この曲で私はジョンの左手に脱力の究極形を見ました。この『舞踏礼讃』という曲は基本的に弾き手本位な曲でして(爆)、特に左手は一度手の形を決めたらそれをそのまま縦なり横なりに動かしていくだけで弾けてしまうという部分が結構あります。ただしそれも理論上の話で、実際はその手の形が結構無理があって力が入ってしまってフォームが崩れて音がびびったり、手の形は同じでも開放弦を交えて高速なスラーで移動しなければいけないので左手指が非常にバタバタしてみたりとなってしまいがちです。ところがジョンは、左手の形が一旦決まってしまうともうピクリとも指が動かない。スラー交じりに縦に左手を移動させていくフレーズのところも、当然指は動いているはずなのですが見た目は本当に指は静止したまま手だけが平行移動しているように見える。ゾクッとしました。どんだけ無駄のない小さな動きで弾いてんだと。かつて藤井敬吾先生が喫茶アルハンブラで半音階で左手の指の動きをいかに最小限に抑えて弾くかということを実践して見せてくれた時も衝撃でしたら、それを実際の曲の中であそこまで見事に実践しているのを見たのは初めてです。しかもまた『舞踏礼讃』の演奏が凄くよかったんですよ。あの曲を妖しいだけじゃなく本当の意味でカッコよく音楽として聴かせてくれるギタリストはなかなかいませんからねー。
そして曲は私の中で本日一番のハイライトである『大聖堂』に移ります。そう、私が初めて買ったクラシックギターのCDはジョン・ウィリアムスの『バリオス作品集』です。そして三回生の定演までずっとそこに収録されている『大聖堂』を目標にやってきたわけです。その名曲が、最初に買ったCDと同じジョン・ウィリアムスが、まさに目の前で弾いているわけです。そりゃ熱くならないわけがありません。そして演奏の方も期待通り、もう最初の一音から客席の空気をすべてかっさらっていくような、オーラに満ち満ちたものでした。ジョンの音って透明でクリアというよりは、少しかすれた感じの丸みがある暖色系のものだとこれまでの演奏からは思っていたのですが、この『大聖堂』の第一楽章ではちょっと毛色が変わりました。丸みのある暖色系の音という底の部分は変わらないのですが、かすれた感じが消え去って、透明感が増したというか輪郭がスッキリしたというか、彼独特の力強いハーモニクスがそのまま実音で出ているような、そんな音に突然変わりました。今思えばこの変化は、もしかしてPAで調整してたのかもしれませんが、とにかくその音にすっかり私は引き込まれ、第三楽章の最後の和音を軽く流して終わるまでずっと固唾を飲むどころかその固唾を飲むために集中力がわずかにそれるのも嫌だというくらいじっとステージから流れてくる音に聞き入ってました。終わった後はもう会場中その日一番の拍手です。客席の何処かから「ブラボー」と叫ぶ声が聞こえます。鳴り止まない拍手にステージ上のジョンが何度も何度も笑顔を返し、次の『森に夢見る』のために調弦を変えようにも拍手がうるさくて困ったなくらいの表情でたたずんでいました。
次の『森に夢見る』もいい演奏でしたし、最後ベネズエラのギター音楽ではまた後半の開始と同じように、気持ちよく音楽に乗っていけるセンスのいいリズム感で観客を楽しませてくれて、コンサートの本編は終わりを告げました。アンコールは三曲、すべて『解き放たれた悪魔』からの曲で、最初の曲はちょっとわかりませんでしたがあとは『星の涙』と『別れへの前奏曲』でした。最後のアンコール前のスピーチで、「これも『解き放たれた悪魔』からの曲で、『Prelude del Adios』です」と告げて「これでアンコールストップですよ」と暗に告げるジョンの、ちょっと悪戯っぽい笑顔が印象的でした。アンコールストップも終わり、ジョンが袖に帰っていきます。それでも当然拍手は止みません。もう一回出てきてくれないかなと皆思ってるわけです。が、鳴り止まないカーテンコールも上がった客電に有無を言わせず止められます。拍手も一気に小さくなっていきます。が、その瞬間客電がまた落ちて、袖からジョンが笑顔で両手を広げて小走りに出てきます。そんなちょっとした悪戯が、無邪気な笑顔によく似合っていました。いやー、このコンサート聴いてジョン・ウィリアムスが好きになりました。彼の演奏は決して「端正で上品にまとめる」だけでなく、聴き手を引き込むオーラとリズムセンスに裏打ちされた力強い説得力のある演奏家なのだなと、私はジョンへの認識を改めましたとさ。
・・・しばらくは『解き放たれた悪魔』が部屋でヘビーローテーションでかかりそうです。