2008年10月22日水曜日

エサ=ペッカ・サロネン指揮『火の鳥』@サントリーホール

 今日はエサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニックのコンサートを聴きにサントリーホールに行ってきました。元々このコンサート、5月にウィーン・フォルクスオーパーが演る喜歌劇『こうもり』を観に行った際、大量にもらったチラシの中から選別したもの。ストラヴィンスキーを振らせたら当代随一の呼び声高いエサ=ペッカ・サロネンが20年間率いた手兵ロサンゼルス・フィルを従えての同フィル音楽監督勇退前の最後の来日とくれば、それは当然なかなか興味をそそります。サロネンはストラヴィンスキーの『春の祭典』のCDを持っているのですが、それもいい演奏でしたし、同日の演目の中にファリャの『恋は魔術師』が入っていたこともあり、私は今日のコンサートのチケットを取ることにしたのです。それと一番の理由は、複雑なリズムと多様な色彩感が演奏するオーケストラと指揮者にとって非常に難易度が高いストラヴィンスキーの曲を、それを演奏したら当代随一と呼ばれる指揮者がどのようにタクトを振るのか実際に生で見てみたいと、そういう思いもありました。

 まず、本日の演目は以下の通り。

 ファリャ: 恋は魔術師より 恐怖の踊り/愛の戯れの踊り/火祭りの踊り
 ラヴェル: バレエ音楽『マ・メール・ロワ』
 ストラヴィンスキー: バレエ音楽『火の鳥』全曲版(1910年)

 まずはファリャの『恋は魔術師』。『火祭りの踊り』を始めとして何曲かはギター編曲版としても親しみがあるこの曲、いきなりよかったのです。サロネンはCDで聴いた比較的クールな印象とは違い、結構熱い指揮を振ります。タクトを持たずに徒手空拳で指揮をする彼は、全身を使って指揮をしますが、それ以上に指先を使っても指揮をします。時にその指の細かい表情が、曲の微妙なニュアンスをオーケストラに伝えていたように思います。ファリャのこの随所にスペイン風な情緒と情熱が見え隠れする名曲を、オーケストラの魅力をフルに発揮して聴かせてくれました。

 『マ・メール・ロワ』は実は個人的に特に好きな曲ではないのですが(ラヴェルやドビュッシーはどうも苦手)、この曲では各パートのソリストが魅せてくれました。特によかったのが2ndバイオリンの女性ソリスト。恐らくKristine Hedwall。この曲では第一バイオリンのコンサートマスターよりも甘く豊穣な音色を聴かせてくれていました。この曲で第一部が終了となるのですが、その際に指揮者がソリストを紹介していった時に他の誰よりも彼女に大きな拍手が送られていた辺り、きっと皆同じように彼女のバイオリンの音色に魅せられていたのでしょう。

 そして圧巻だったのがやはり『火の鳥』。これは凄かった。本当に凄かった。最後フィニッシュを聴き終えた際、単純に「これは凄い」としか考えられなかったくらい。やはり指揮者も演奏者も完全に手の内に入れているこの曲、最初から最後までもの凄い緊張感と集中力。『火の鳥』はその曲が持つ構造的な難しさのため、指揮者は常に明晰さを保ってオーケストラ全体を統率していかなければならないわけですが、サロネンの恐ろしいところは常に冷静さと明晰さを持ってオーケストラの音色を統率し、それが下手に溶けあいすぎて雰囲気だけの演奏にならないよう曲の構造をきっちりと構築しながらも、随所に応じて非常にダイナミクスの大きな感情の波でオーケストラ全体を引っ張りもするところ。特に火の鳥の出現からカスチェイの踊り、子守歌といった流れでは昂り、激情的に指揮をする一方、取って返したように理知的に静謐に音楽を切り替える、その理性と感情の切り替えが空恐ろしくすらありました。

 しかしロサンゼルス・フィル、休憩前と後でまったく音が違う。実際休憩後『火の鳥』ではそれまでの曲より人員を多く配置して、編成自体が増強されているのである程度当然なのかもしれませんが、それにしても『火の鳥』での彼らの演奏は凄まじかった。特に前半と変わったのはコンサートマスターの第一バイオリン、Martin Chalifour。『マ・メール・ロワ』では第二バイオリンのソリストに食われ気味という印象すら受けた彼が、『火の鳥』では素晴らしい音色と扇情的ですらあるその演奏で曲全体を盛り上げているのです。そしてクライマックスに向けて大きなダイナミクスをもって突き進んでいくオーケストラの力強さと豊かな色彩感!ロサンゼルス・フィルの非常に美しい音色を持った管楽器セクション、特にフルートがたまらない。そして『火の鳥』のクライマックスで震えながら底からすべての音を絞り出せとばかりに手を振り上げるサロネンと、それに応えるロサンゼルス・フィルの奏でる音楽は、思わず背筋を伸ばして目を見開いてしまう程の圧倒的な力を持っていました。素晴らしい名演です。

 当然、演奏後の場内のテンションは凄まじく、アンコール前やアンコール中には誰も席を立ちません。大抵、何人かは帰るのですが。鳴り止まない拍手に何度も袖から出て挨拶するサロネン。ここまでは、他のコンサートにも見られる光景でした。ところが、二曲のアンコールを終えて、客電が上がって扉が開き、人が外に流れ出してもまだ拍手が止まらない。これは、私は初めての経験でした。大抵どんないいコンサートでも、客電が上がれば皆諦めて拍手を止めるのです。ところが今日は客電が上がっても拍手が続き、とうとう最後に客席が明るいまま、上着を脱いだサロネンがもう一度出てきました。それほど、私以外の人も感銘を受けた演奏だったのでしょう。私もコンサート後にサイン会をやるというので、思わず終演後に『火の鳥』のCDを所望してサインをもらってきました(爆)。

 割と軽い気持ちでチケットを取ったこのコンサート、実に素晴らしい演奏に巡り会うことができました。今日の演奏が、いつかまたCDやNHKの放送で聴けたらいいのですが。余談ではありますが、今日会場に行くまで、私は今日のメインプログラムはずっと『春の祭典』だと思っていました。会場でプログラムもらって開いてみて、「あれ、火の鳥?」と思ってそこで初めて自分の間違いに気付いたとのことです。

2008年10月20日月曜日

無題

 思考を停止させてはいけないと、自分自身に言って聞かせなければならない。困ったものだ。ただ状況が遷り行くままに、ただ時が流れ行くままに、まかせていけばよいのであればそれもまた楽ではあるのだけれど。

2008年10月14日火曜日

モオツァルトのかなしさは疾走する

 モーツァルトは生涯で交響曲を41曲作ったが、その内短調はをとるものは2つだけであるというのは有名な話である。第一楽章の優雅にメランコリックな旋律があまりに美しすぎる40番と、第一楽章のシンコペーションでグイグイと引っ張る入りから、随所に遊び的なリズムが鏤められた25番。前者は現代でもポピュラー音楽にまで引用されるほど有名だし、後者は映画『アマデウス』のオープニングに使われ一大センセーションを巻き起こした。我々の代の近辺のクラギタの人間にとってはきよが指揮を振るBKCクラギタの定演で、大合奏の一曲目として演奏された曲としても印象が強いことだろう。奇しくもこの二曲、ただ短調というだけでなく、どちらもト短調で書かれている。より有名な40番が「ト短調シンフォニー」と呼ばれることがあるのに対し、25番は「小ト短調」と呼ばれたりする。今日はこの「小ト短調」について少し話してみたい。

 このモーツァルトの交響曲25番、私自身は手元にそんなに多くのCDをそろえている訳ではないが、大きく分けて3つの演奏スタイルがあるように思う。ひとつはゆったりとしたテンポ、少なくとも聴いていて速いとは感じさせない程度のテンポを設定し、オーケストラの響きの美しさを前面に出して優雅にウィーン風に仕上げるもの。私の手持ちのCDの中ではバーンスタイン/ウィーンフィルケルテス/ウィーンフィルがこれに当たる。

 もう一つは昨今流行の、モーツァルトが生きた当時使用されていた楽器のコピーを使用し、オーケストラの編成や曲の解釈も可能な限り、わかっている限り曲が作られた当時に沿う形で演奏をしようという、いわゆる古楽派の演奏。概して現代のモダン楽器による演奏と比べると早めのテンポを設定し、非常にキビキビと、颯爽とした演奏であることが多い。私の手持ちの中ではこの曲は唯一一枚、コープマン/アムステルダム・バロック管弦楽団がこれに当たる。

 そして最後が、非常に速い、古楽派よりもさらに速いテンポを設定し、まさに疾風怒濤、もの凄い勢いで鬼気迫る演奏をするものだ。これは私の知る限り同時代を生きた二人の巨匠のみが取っている。ワルター/ウィーンフィルクレンペラー/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団だ。このあまりに大胆な曲の解釈、演奏者を恐怖に陥れかねないくらい極端に速いテンポ設定を行ってなおかつ美しく緻密な音楽を作り上げるという離れ業は、やはり彼らくらいの巨匠でないとなしえないのかもしれない。

 ざっといくつかのCDとおおまかな演奏スタイルを紹介したが、では私のお気に入りは何かと問われれば、この曲に関してはワルターとクレンペラーの一騎打ちだ。ちょっと他の演奏は入り込む余地がない。両者とも他の演奏者ではまったく追いつけない極端に速いテンポ設定ながら、音楽には一糸の乱れもなく実に豊かな世界を構築してみせる。これほどのテンポでも演奏に破綻を来さないのはさすがウィーンフィルにコンセルトヘボウ。世界屈指の超名門オーケストラはやはり並のオーケストラとは一味違う。

 興味深いのは、ワルターとクレンペラーという二人の指揮者が同様にこの速いテンポを取っているという点だ。両者とも、元来は速いテンポ設定を好む指揮者ではない。ワルターはゆったりと歌われる旋律が最大の魅力となる指揮者だし、クレンペラーも遅めにどっしりと構えた上で、荘厳堅牢な音楽を構築するのが常道だ。そんな二人が敢えてこの曲だけ他と違い極端に速いテンポを取る。このことには25番という曲の表現の本質に関わる何かがあるのかもしれない。同時代の巨匠二人は、この曲の中に何を見たのだろうか。この二人は25番から優雅さという要素を徹底排除した。そしてその先に残ったのは悲劇的なまでに疾走する悲しみだ。それは苦悩ですらないのかもしれない。

 それでもワルターには少なくとも曲の序盤にはその悲しみの中にまだ明るさが残っている。渦を巻く悲劇の中に、ほんの少しだが、明るい救いが垣間見える。だが曲が進んでいくに連れ、その僅かな明かりも押し流される。そこがまた悲しい。

 対してクレンペラーは、終始徹底して堅牢で厳しい音作りをする。ワルターよりまだ速い、極限のテンポの中で凄まじい集中力と緊張感が音楽を支配する。疾風怒濤、狂おしくも荘厳な悲壮感。クレンペラー特有の緊張感と巨大で荘厳な音楽が、走り抜ける悲しみの中で構築される圧倒的な支配力。最後まで演奏にも音色にも乱れを見せず、その悲しみを最終楽章まで共に走り抜けてみせるコンセルトヘボウの演奏もまた見事だ。最近の一番の愛聴盤となっている。

 とはいえワルター/ウィーンフィルもクレンペラー/コンセルトヘボウもその解釈の異質さからして万人にお薦めとはさすがに言いがたい。25番入門としてならむしろコープマンをお薦めしよう。古楽器による演奏は、弦楽器が金属弦でない分響きが透明で澄んでいて美しい。颯爽とした演奏もモーツァルトには非常によく合っている。値段も1,000円と手頃だし、何より入手しやすい。クレンペラー/コンセルトヘボウなんて実に入手しにくい(苦笑)。25番は既に持っていて、もう一枚という段で初めてワルター/ウィーンフィルやクレンペラー/コンセルトヘボウをお薦めしよう。特にワルター/ウィーンフィルは40番の伝説的名演とのカップリングなので実に魅力的だ。

 ところで、今回は小ト短調、25番の話をしたが、実はもう一つのト短調、40番にもこのような疾走する名演がある。それも演奏者はフルトヴェングラー/ウィーンフィルだ。この40番は初めて聴いたとき正直驚いた。古楽の40番も速いが、そんなもんじゃない。それこそあの優雅な悲哀に満ちた主旋律がめまぐるしいくらいに聴こえる。それでもその速さの中でフルトヴェングラー特有の縦にも横にも異常に大きなダイナミクスが展開されるもんだから、演奏者はもう必死だったことだろう。これもオケはウィーンフィル。やはりさすがだ。この演奏は一聴まるで重戦車が時速200kmで一般道を爆走しているような、恐怖感に近い印象を抱いたが、それでも速さに耳が慣れると実に劇的にダイナミックな音楽が展開されていることに気が付かされる辺りはさすがにフルトヴェングラー。ただ悪戯に速いテンポ設定を取っているわけではない。そもそもこの40番第一楽章、モーツァルトのテンポ指定はAllegro molto。フルトヴェングラーのテンポが、実は正解なのかもしれない。まぁでもやはり普段40番を聴きたい場合はワルター/コロンビア響が多い。一番、安心して聴ける。先に紹介したワルター/ウィーンフィルは演奏は実に素晴らしいのだが、少々音質面で苦しいところがあるので、普段聴きとしてはステレオでスタジオ録音されたコロンビア響が落ち着く。特に、この曲の瀟洒な悲しみの旋律では再生時のノイズは少ない方がありがたい。

 ところで余談ではあるがこのフルトヴェングラーの40番、同じ演奏が収録されているCDは他にも色々あるが、その中で何故これを選んだかと言えば、それはカップリングのハイドンの交響曲94番<<驚愕>>。これが実に素晴らしい名演だからだ。初めてハイドンの交響曲を心から素晴らしいと思った。つまりモーツァルトの40番だけでなく、CD一枚すべて丸ごとお薦めできるのがこれ、ということ。疾走する40番に興味のある方は是非。

 もう一つ余談として、この日記のタイトルは小林秀雄の『モーツァルト』の中に出てくる有名な一文。今日の日記を書く際に一度読み直してみようと思ったのだが、引っ越しの際実家にでも送ってしまったのか、何故か今手元にない。ので、これについて触れるのはやめておいた。ちなみにこの文は、こう続く。

 モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。

2008年10月13日月曜日

こどもの国

 昨日は仕事でスーツ着て客先だったわけですが、今日は普通にお休みです。ウチの娘っこと妻を連れて、車で『こどもの国』に行ってきました。「都会人は朝が遅い」というのが最近経験上わかってきたので、出かけるなら午前中、開園直後を目指すのが妥当です。普段会社に行くのと同じ時間に床を出て、無事にこどもの国の駐車場に入ることに成功しました。

 ここは自然公園とアスレチックが一体になったような結構だだっ広い施設で、確かに『こどもの国』の名に違わず色々と子供心をくすぐる施設が目白押しです。多数ある芝生の広場やアスレチックもいいですし、自然公園ばりに森林豊かな場所なので、大人も散歩して気持ちがいい。話によると日本初の、ソーラー電池で動くSL(もちろん子供用)もあり、なかなか、いい場所でした。今日は行くなりまずそのソーラーSL太陽号に乗り、白鳥湖(という名の巨大な池)でボートをこぎ、園内にある動物園で子供にウサギを抱っこさせてみたりして楽しんできました。私は以前ウサギに指を噛まれたことがあるので(苦笑)、内心少々ハラハラとしていましたが、ここのウサギは異常なまでに達観した人慣れをしていて、人から人へ手渡しにされていっても全く動じず、身じろぎもせず、えらいおとなしいものでした。いやー、しかしウサギってやわらかくて気持ちいいですね。見た目よりずっとふわっとして軽いし。なかなか、楽しかったです。

 ウチから車で40分程度で行けるこどもの国、思った以上にいいところでした。晴れた日の行き先としてはなかなかよいねぇと思いましたとさ。

2008年9月24日水曜日

GLOBAL METAL

 先週の金曜日のことになるが、『GLOBAL METAL』という映画を観に行った。"メタルをこよなく愛する人類学者"であるサム・ダンが、世界各地でどのようにメタルが聴かれ、根付こうとしているのかを文化人類学のフィールドワークさながらに各地を足で回って確認していくという、コアなメタル・マニア向けのドキュメンタリー風映画。前作『METAL -A HEADBANGER'S JOURNEY-』はブラック・サバスやアイアン・メイデン等、メジャーどころのインタビューを中心に構成されていたのでまだ一般的なメタルファン向けな感じもしたのだが、今回は如何せん"GLOBAL"だ。どこのどんなメタルが出てくるのかわかったもんじゃない。その意味でマニアレベルは随分上がっていると考えていいだろう。そんなコアな映画が渋谷の単館系映画館アミューズCQNで上映されているので、一緒に観に行こうと会社のメタル好きに誘われ、21時半上映開始という我々にとっては行きやすい時間帯のレイトショーに行ってきたわけだ。

 この『GLOBAL METAL』、これがまた実によかった。最初はブラジルから始まり、いきなりセパルトゥラから始まる。アングラのラファエル・ビッテンコートのインタビュー等を挟みつつ、ブラジルではメタルが若者の間での新しい文化、民主化の象徴として浸透してきたと語る。

 次に日本。マーティー・フリードマンと伊藤政則が語る日本のメタルシーンは(特にマーティーが語る分には)やや偏りがある気もしたが(苦笑)、まぁ面白かった。マーティーはビジュアル系が面白いといい、その代表としてX JAPANが紹介される。どうせビジュアル系を取り上げるなら欧州でもっと売れてるDir en greyとかにしときゃいいものを。あるいは『Death Pandaデス!』が何でも様々な要素をミックスしてしまい、他の国ではありえない取り合わせが生まれるという日本の特質を表す曲として紹介されてみたり。なかなかマーティー、面白い。

 対して伊藤政則が語る、「日本ではメタルに政治的な思想や社会への反発、自己実現といった要素を求めて聴いている人はほとんどいないと思う」という台詞には共感が持てた。実際、私にとってメタルとはあくまで音楽であり、思想やアイデンティティの問題ではない。逆にそれが日本という国の独特なところなのだろう。思想や立場から切り離されて、音楽が音楽として浸透していく。それはゆとりなのだろうか、それとも弛緩なのだろうか。余談だが、先日会社の人間と行ったロックバー『Blackmore』が日本のメタルファンが集う聖地として紹介された際はちょっとニヤッとした。

 その後もどんどんマニアックな各国を回っていくが、どんどんメタルへの風当たりは強くなる。インドネシアでは一度だけメタリカのコンサートが開催されたが、会場周辺で暴動が起き、それ以来メタルのコンサートは禁止になった。レバノンではメタルも長髪も禁止されており、髪を伸ばしていたりロックTシャツを着ているだけで警察に逮捕され、悪魔崇拝者か、それともメタルファンかと尋問を受ける。常に戦地としての側面と隣り合わせであるイスラエルでも事情は似ている。そこでメタルを演奏するバンドは、

「ここでは争いが絶えず、ただ道を歩いているだけでいつ殺されるかもわからない。自爆テロにだって巻き込まれるかもしれない。道で悪魔に襲われても怖くない。ここでは、生きている人間の方が怖い。恐怖は、身近に溢れすぎている。だから自分は希望を歌いたい」

 と語る。日本は、なんと平和な場所だろう。中近東で唯一安全にメタルを楽しめるイベントであるデザート・ロックにはその日を楽しみに大勢のファンが詰めかけるという。彼らがメタルに対して持っている熱狂はきっと我々とは明らかに種類が違うものだろう。

 映画の最後はインドでアイアン・メイデンが初めてコンサートを開く場面に移っていく。『Hallowed Be Thy Name』の最初の鐘の音が、あのように緊張感のある期待と不安を持って響いたのは初めて聴いた。かつてウィーンフィルのメンバーがフルトヴェングラーのタクトの下、ベートーベンの『英雄』を演奏した際に述べたと言われる「最初の二つの和音があのように響くことはもう決してないだろう」という言葉が、あの『Hallowed Be Thy Name』の最初の鐘の音にも通じるように思えた。インドで響く『Hallowed Be Thy Name』や『Fear Of The Dark』。自他ともに認める敬虔なヒンドゥー教徒がほとんどを占めるこのインドという国で、彼ら聴衆は一体どのような思いで"Hallowed Be Thy Name"と叫んでいたのだろう。それは確固たる宗教、神を心の中に持たない私には決してわかり得ない胸中のように思えた。

 この映画は確かにメタルのドキュメンタリーだが、単純にそれだけではない。それは今も世界中に残る、抑圧や差別、不自由、恐怖との闘いだったり、その精神といったものをメタルという音楽を通じて炙り出す、実に考えることの多い映画でもあった。この映画は観てよかった。DVDが出たら買うかもしれない。しかし使われた音楽は随分とエクストリーム系ばかりで激しかったなー・・・。

 余談ではあるが、本編の最後を締めた曲は『Hallowed By Thy Name』。だが、エンディングのスタッフロールの際に流れていた曲が私も一緒に行った人も何だかわからなかった。あれは一体誰の何という曲なのだろう?結構、カッコいい曲だった。

2008年8月25日月曜日

仕事と買い物

 8月は仕事が非常に忙しく、一人繁忙期の様相を呈しつつも何とかかんとかやっています。まぁ仕事に過酷に忙しい時期がたまに来るのは昔からなのでそれはいいのですが、これもまた昔から、一つ変わらない私の癖があります。それは仕事が忙しくなると購入する酒やCDの量が増えること。どんな深夜に帰宅してもインターネットで24時間商品を探して購入できるこのご時世、気力さえあれば週に一度くらいはネットでショッピングくらいはできます。以前にも書いた気がしますが、私も意外とショッピングでストレスを発散できるタイプのようで、仕事が苛酷な際にはそれに比例して買い物の量が増える傾向があります。

 最近はどちらかというと酒よりCDをよく購入します。iPodのイヤフォンをaudio-technicaの『ATH-CK10』に換えてからというもの、インナーイヤー型イヤフォンの特質として外界からのノイズがかなりシャットアウトされた上に音の解像度も非常に上がり、地下鉄のホームの騒音の中でもクラシックのppの音まで明瞭に聴けるようになったので、どこでもクラシック/ロックを問わずに音楽が楽しめるようになったことが非常に大きいのです。前のはHR/HM系の音楽をボリューム大きめにしていても地下鉄のホームに電車が入ってくる際はもう全然音楽は聴こえませんでしたからね。いやー、大したものです。

 というわけで最近はベートーベンに結構ハマっています。今更ですが。しかも指揮者という面ではフルトヴェングラーとトスカニーニという半世紀以上前の巨匠二人にハマっています(苦笑)。いやー、この二人、どちらも残されている録音は実に酷い音質のものが多いですが(特にフルトヴェングラー)、その音楽は実に凄まじく、そして素晴らしい。何故この二人が今も巨匠と呼ばれ、その酷い音源にも関わらず今でも尊敬され続けているか、実に今更ながら最近やっと実感できた次第です。確かにこの二人の演奏を聴くと最近の演奏は酷く頼りない。音楽の持つ力が弱いようにさえ感じてしまいます。

 しかしやはり、ベートーベンの音楽は私にとって少々聴くのに力がいるので、ふと合間にグールドの弾くバッハなど聴くとやはり落ち着きます。まぁ、グールドの演奏で"落ち着く"ってのも如何なものかとは思いますが(苦笑)。

2008年8月13日水曜日

告別・旧『あゆむの雑記帳』、そして、お盆

 多分今月頭くらいになってからだと思うのだが、突然私の学生時代からのメールアドレスであるayum@na.sakura.ne.jpでのメール受信ができなくなった。旧『あゆむの雑記帳』のサービスである。このアドレスでの受信ができないということは、つまり旧『あゆむの雑記帳』のサービスが満了したということである。まぁ元々このayum.jpに移行した次の年で契約は切れていて、利用しているレンタルサーバの新サービス移行キャンペーンで一年間のデータ保持が約束されていただけなので、それが移行後三年も残っていただけでたいしたものだったのだが。今は旧『あゆむの雑記帳』のURLであるhttp://na.sakura.ne.jp/~ayum/にアクセスしても何も表示されない。仕方ないことではあるが、やはり少々寂しい。

 あのHPでは色々なことを書き、様々な人から反響があり、色々な形での交流があった。学生時代も、社会人になってからも、自分自身のランドマークとして、変な話随分と助けてもらったものだ。その内容はこの現『ayum's note - あゆむの雑記帳』にも引き継がれているが、あの当時の姿はもう見れなくなってしまった。もちろん、私のマシンの中にはデータが残っているので見ようと思えば見れないことはないけれど。

 このようにして、時は移る。昔のなじみは少しずつ消えていき、新しいなじみができる。悪いことではない。それは前に進むということ。だが、消えていったなじみをほんの少し懐かしむことも、それもまた別に悪いことではないだろう。

 明日はお盆だ。ご先祖様が一年に一回、里帰りをする日だ。ウチの実家では今も祖父(曾祖父だったかもしれない)が作った手作りのおしょろ様を13日に組み立て、飾り付けをする。いわゆる精霊棚だ。そういえば、祖父が亡くなる前の夏、祖父とこのおしょろ様を組んだ。「(父が作ると)いつもここが間違ってるんだ」と言い、肺を病んでいた祖父は大きくふうふうと息を吸いながら、このおしょろ様を組み立てていった。その祖父も、今はその棚に里帰りする人となってしまった。

 今年もまた、お盆が来る。私にとってこの時期は色々なものを懐かしむ時だ。新潟の夏の、どこまでも平坦な水田の緑と川の景色は、私に色々なものを思い出させる。その意味で、いつからだろう、夏は四季の中で一番寂しい季節になってしまった。

 そう、今年もまた、お盆が来る。