2003年11月30日日曜日

チンザノ・ドライの飲み方

 久しぶりにチンザノ・ドライを買ってきました。学生時代の特に前半、下宿でカクテルを盛んに作っていた頃によく飲んでいたこいつは、白ワインをベースに香草やスパイスで味を調製した、いわゆるベルモットという種類の酒です。ワインとベルモットは、まぁ言うならウォッカとズブロッカみたいな関係でしょうか(余計わからん?)。ベルモットの銘柄としてはチンザノの他にノイリープラットやマルティーニ等があり、それらの中でも使われる香草・スパイスの種類や甘味・辛味なんかで種類がいくつかあります。私の愛用のものは最初に名前を出したチンザノ・ドライで、飲んでる時チンザノ・ロッソが好きな人間が周りにいたりすると、よくドライかロッソかで喧嘩します(爆)。

 学生時代、元々はマティーニ作るために買ってきたドライ・ベルモットですが、マティーニって基本的にそんなに量飲めるもんじゃないし(っつーかあれを何杯も飲むようじゃアル中街道まっしぐら)、そもそもマティーニって作るのに凄い神経使うし、なんかもうチンザノ・ドライ冷蔵庫で冷やして飲めばいいじゃんと飲んでみたらこれが結構美味しくてはまったのです。1L瓶で1,000円切るくらいなので安いですしね。それ以来、チンザノ・ドライはよく私の家の冷蔵庫で冷やされているようになりましたとさ。当時は下宿の冷蔵庫が小さかったので500mlのペットボトルに小分けに入れて冷やしてましたが、今は普通の冷蔵庫があるので1L瓶をそのまま冷やせてハッピーです。

 チンザノは店で飲むならバーはもちろん、ちょっとカクテルに力入れてる普通の飲み屋でも置いてあったりします。ただ、その場合はチンザノ自体を冷やしてあることは(特に飲み屋では)あまりなく、仕方なしにロック等で飲むことになる場合が多いです。お薦めはやはり冷蔵庫で冷やしておいてストレートですね!

美味しいチンザノ・ドライの飲み方
1, とりあえず1,000円用意し、チンザノ・ドライを買ってくる
2, 冷蔵庫で数時間冷やし、できればグラスも冷やしておく
3, グラスにそのままチンザノ・ドライを注ぎ、さぁいただきましょう!

今日のカクテルレシピ
マティーニ
 ドライ・ジン 3/4
 ドライ・ベルモット 1/4

 以上をステア(かき混ぜ)して、レモンピールを振りかける。ちなみに、マティーニを作る時のベルモットはノイリープラットのドライが一般的。ドライ・マティーニを作る場合はジンとベルモットの比率は4:1になります

ベルモット ハーフ&ハーフ
 ベルモット(ドライ)1/2
 ベルモット(ロッソ)1/2

 以上をロックでいただく。こいつをチンザノで作ったカクテルを特に『チン・チン』と言うらしい。オイオイ・・・。

2003年11月29日土曜日

2003年11月27日木曜日

痛いのは?

 何だか朝(というか寝てる間)から胃が痛いと思って午前中を過ごしていたわけですが、ふと気付きました。・・・痛いのって胃じゃなくて肺じゃん!?

2003年11月25日火曜日

羊と山羊 - 続報

 羊と山羊の違いについての(しつこい)続編ですが、どうやらイエスを小羊に関連付ける記述は『ヨハネの黙示録』にあるらしく、先に引用した『マタイによる福音書』の件も含めて、キリスト教的に羊が何だかいい役割として定着したのは新約聖書から、ということらしいです。じゃあ山羊は?というと、どうもこちらが判然としない。とりあえず山羊が悪魔教のシンボルとして表舞台で華々しく(?)デビューするのは魔女狩りの時期、つまりは15世紀~17世紀。なのですが、ここは当然その前に山羊が悪魔教に用いられる布石があるだろうと見るべきで、じゃあその布石を探そうと足を踏み出してみると、これがなかなか見つからない。スケープゴートの起源はシリアの信仰にあるらしいとの垂れ込み情報も入りましたが、そこから先に進めない。ヒントは旧約聖書にあるのかなぁという気はしてるのですが・・・。

 そう、キリスト教を調べてて知ったのですが、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教って、元は1つの流れで始まったんですね。知らなかったんか!? って話ですが。要は「アブラハムの宗教」ということでくくれてしまうらしいです。イスラム教のコーランですらイエスがメシアだとして扱われているし、メッカで神の啓示を受けたマホメッドが、それが本物の啓示だと確認する基準はキリスト教の聖書だったりするわけです。キリスト教がユダヤ教を更新するような形で出てきたように、イスラム教はキリスト教を更新するような形で表れ、産業革命以前はキリスト教よりもずっと優勢に世界を席巻していたとか。ちょっと現在のイメージとは違います。

 しかし元々は同じ流れの宗教ってことを考えるとキリスト教とイスラム教の宗教闘争って、何だかなぁ・・・、って思います。キリスト教ってそりゃいわゆる原理主義もあるけれど、大部分的には意外に結構てきとーで、日本で神道と仏教が混在しているような感じで世界の色々な地域の土着の宗教や神と共存して祭を共有してたりする(ケルト文化とうまいこと融合してる地域もある)一神教らしからぬざっくばらんさがあるんですから、もっとうまいことやってきゃいいのにとか思ってしまいます。科学の進歩と政教分離の結果、欧米ではキリスト教がおおらかに落ち着いてきた反面、キリスト教の倫理を抜いた論理だけが政治経済の世界で一人歩きして大暴れしているような気もするのです。まぁ、この最後の台詞は『キリスト教』という本の受け売りですけど。

2003年11月23日日曜日

2003年11月22日土曜日

最高のペプシ

 今日は他のグループからウチに異動になった人物の、元々のグループと合同で送別会兼歓迎会でした。それはまったく問題ないのですが、いや今日は酒がまずかった・・・。精神的にまずかったとか疲れがたまっていて酒が飲めなかったとか、そういうんじゃなくもう純粋に味としてまずかった(爆)。なんかもう、ビールは発泡酒だしジンバックはえらい甘ったるいし、何頼んでも「よくここまでまずく酒作れるな!?」とこっちが驚いてしまうくらいひどいもんしか出てこなかいのです。もう途中から「これなら味は変わりようがあるまい」とペプシコーラ飲んでました(笑)。いや~、あのペプシはうまかった。

2003年11月20日木曜日

「委員長」と「道なり君」

 多分どのクラスにもというわけではないんでしょうが、いわゆる「委員長タイプ」の人間というのはいつの時代にも結構いるものです。・・・私はそいつらが大嫌いでした(爆)。とにかく常識やらルールやらを押し付けたがる。「授業中は静かに」、「廊下は走るな」、「悪口言うな」等々、とにかくゴチャゴチャめんどくさい。しかもヤツらの凄いところは、それが誰であろうと面と向かってそれを言ってくるところです。冷静に考えればある意味凄い。正義感という信念に対する揺らぎない確信は、今考えれば宗教的なものすら感じます。まぁあの当時は世間並みに「いい子ぶりやがって」とか「そんなに内申ほしいか」とか、あるいはティーンエイジャーらしく(?)「大人の手先が」くらいに思っていたわけですが。

 大学に入るとそういった「委員長タイプ」の人間は力を発揮する場が少なくなるためか(私はゼミにはあまり参加してなかったし、Toward eveningや虹色電脳集団、クラギタはそのタイプとは無縁)あまり見かけなくなりましたが、今度は何と言うか、「道なり君」みたいなのをよく目にするようになりました。「大学生になったんだからバイトもしないと」とか、「学生の本分はやっぱり勉強だから勉強しないと」とか、非常に短絡的な因果関係に疑問もはさまずそのまま動いているタイプです。見渡してみると何とこいつが非常に多い。そして彼らは大体において、「~だからこうこうしなきゃいけないし、でも自分はそんなんじゃないし、どうしよう」とかいった感じで悩んでたりするわけです。なんだかなぁ、と思いますね。

 こんなのも思考停止の一形態ではないでしょうか。「委員長」は与えられた正義のステレオタイプをそのまま受け入れ、妄信的にそれを実践します。「道なり君」は一般論を自分の状況に適応させることすらせずその差異にとまどいます。どちらも出来合いのものをただそのまま身にまとい、その時点で自分で思考することを放棄しているのです。ところが「委員長」は周りの「法」とでもなるべき自分の「正義感」を自分の「考え」だとして疑わないでしょうし、「道なり君」はそもそも世間の平均値だか最瀕値だかを取った「一般論」なんてもんが「自分」という個人にぴったり隙間なく合うはずもないのに、そのギャップを自分と世間との「ずれ」のように認知して勝手に悩む。悩んでるから一応頭は回っているわけで、そんな人が自分が思考停止してるなんてこれまた当然思うわけがない。前提が間違ってるんですけどね(爆)。「てめぇは悩むとこ間違ってる」と軽く小一時間説教したい気分で一杯です。

 「常識」とか「一般論」とか「風潮」とか、そんな曖昧なもの絶対的に受け入れてしまう人があまりに多い気がします。別に否定しろと言っているわけじゃありません。自分自身の思考なり行動に組み込む前に、ちょっと一回立ち止まって考えてみてもいいんじゃないかと言いたいのです。「一般論」等といったある程度どこにでも適用できそうに思える(当然自分もそこに含まれるように思える)ものとは実は粒度が結構粗いもので、だからこそ「自分」というより粒度の細かい範囲を対象として考えた場合どうしても過不足が出るものです。だから仮に一般論を受け入れるにしろ、自分にもっと合うように余計なものを削ったり足りないところを付け加えたりしてもいいんじゃないかと思うのです。そのまま受け入れるのでなく、「自分の場合はどうなんだろう」というステップを入れることで自分により似合う「自分的一般論」にしていけばいいんじゃないですかってお話です。そうすりゃ少なくとも「道なり君」なんかは相当悩み減ると思います(笑)。そもそも彼らの悩みの大半は「自分」の方を無理に「一般」に合わせようとするそのギャップから出てくるものなのですから。

 例えば本当に学費や生活費を稼ぐ必要があってバイトする人なら「バイトしないと」とは悩まないでしょう。義務感からの焦りとかもっと他のことしたいのにとかいう不満等はあっても実体のない悩みじゃありません。ところが「大学生になったんだからバイトもしないと」とか言って頭抱えてるヤツに限って、実はそんな必要なかったりするヤツばかりなのです。そりゃ現実問題として必要ないものを「一般論」から強制されたんじゃ嫌にもなるだろうよ(爆)。まず別にバイトしなくてもやってけるんならする必要ないってことに気付こうぜ。そうすりゃ他にどんな生活の選択肢があるのかも考えられるでしょう。「学生の本分は勉強だ」って、じゃあアンタその勉強やってどうすんの?って話です。好きならいいです。でもそう言ってるヤツに限って楽しそうじゃない。何も満面の笑みでデカルト読めとは言いませんがね。目的があるわけでも楽しみがあるわけでもないのに何故勉強ができるんでしょうか?まぁ勉めることを強いると書いて勉強なわけですから、ある意味彼らは彼らの言う「学生の本分」を忠実に全うしているのかもしれません。ちなみに私は大学は勉強するところではなく自分の可能性を探すところだと思ってました。

 ところで、「委員長」は相変わらず私には理解が難しいのです(笑)。何やりたいんでしょうね、彼ら?