2009年2月9日月曜日

不況

 最近、ニュースでも新聞でもインターネットでも、何かにつけて不況だ不況だと目に耳にするようになった。そして確かにそれはその通りのようで、仕事でもプライベートでも、やはり折に触れて不況ということを実感することが多くなっている。仕事については詳細は触れないが、やはり来年度は色々な意味で耐える年とならざるをえないだろう。これまでの考え方ややり方は明らかにそのままでは通用しない。ここ1、2年を乗り切るための施策と、そこを乗り切った先の5年、10年を見据えた施策。ともすれば内容的に矛盾しかねないそれらのバランスをギリギリのところで取っていかねばならない。ゆったりとあぐらをかいていられる状況ではなくなったのは確かだ。まぁ、元よりあぐらをかいていたつもりはないけれど。

 プライベートでもひょんなことで不況を実感する。例えば散髪に行くと、これまでは午前中に予約をしないと夕方まで一杯だった床屋が、行った時点で自分一人しか客がいなかったりする。最近ではJust Cutで2,000円前後の店も多いから、客はそういうところに流れているのかもしれない。そのせいか、今回は帰りに10%オフ券をもらった。初めてのことだ。

 ネットでワインを買う時によく利用しているエノテカ。昨年12月くらいからほぼ毎日メールで広告が届くようになった。勘ぐりすぎかもしれないが、そうでもしないと売れないからではないだろうか。ワインのような嗜好品は、家計が厳しくなるとすぐに消費されなくなる。円高で多少安くなったとしても。それがまんざら勘ぐりでもなさそうだという傾向として、年末・年始に例年出す福袋が1月中ずっと売れ残っていた。毎年、すぐになくなるのに。まぁ上場企業だから決算報告見ればすぐに状況はわかるのだけれど。私自身、ワインやモルトは以前と比べて節約を心がけるようになった。その分CD買ってれば世話ないのだが。

 私達が結婚式を挙げたオルゴール博物館が、2月でブライダル事業から撤退する。これに関しては不況が起因する気もするし、何となくだが人的リソースの問題のような気もしている。何はともあれ、寂しい限りだ。

 と思ってみると、中には元気なところもある。IKEAに行ってみると、一時期は開店当初と比べると相当客足が落ちていたのに、今日はもの凄い人だった。多くの人が少しでも安くてよいものを求める結果、IKEAのようにそれを確かに実現できているところには人が集まるようになってきている。その意味で、この不況下ではどの業界も生き残り競争は激しくなることだろう。ただし少ないながらも、確かに勝ち組は存在する。

 周囲の声を聞いていると、今回の不況は急にやってきた、という実感を持っている人が多いようだ。私自身、理論ではなく実感という意味では確かに急にやってきたように思う。なるほど、確かに不況とは来るものだ、と。まぁ、あわてふためいても仕方ない。できることをできる範囲でやることにする。

2009年2月4日水曜日

メモ

 思想がそれ自身目的として、その内在的価値によって尊重される精神が乏しいのが我国の現状である。
 思想はつねに何等かの行動の手段として多少とも宣伝的意味を帯びしめられ、従って、独占的、排他的、暴力的性格を持つ。その思想の中のが真であるかよりも、その思想でもつて何をするかが中心的地位を占める。

 ~中略~

 イデアールなものこそもっともレアールである。



2009年2月2日月曜日

続・故障者リスト入り

 先週とりあえず接骨院に行くことでインドメタシン漬けの惨状は何とか回避されたものの、相変わらず痛む左肩甲骨付近に悩まされていたこの一週間。この週末はいつもおせわになっている整体院K-Styleに行ってきました。ただでさえデスクワーク中心で運動不足な私は、忙しく心身に負担がかかる時に限ってアゴやら首やらが悲鳴を上げて、忙しい中で集中力が途切れがちになるという悪循環がともすれば生まれてしまうのですが、ここでできるだけ月イチくらいでお世話になるようになってから、アゴ・首・肩・腰回りのトラブルが大分楽になりました。まぁ、基本不摂生な私はいつも治してもらったらまた酷くしてしまう感じなのですが(苦笑)。

 今回は先生も私の日記を読んでくれていて、左肩の惨状をあらかじめ知ってくれており、しっかりとそこの治療をしてくれました。普段とはまったく違う施術の数々が、改めて今回は酷いんだなというのを感じさせましたとさ。それでも先生が苦心してくれた甲斐あって、施術後一晩経った今では左肩の痛みは無事に日常生活レベルではほとんど解消しました。子供を抱っこするのも楽になりました。あまり無茶な暴れ方をされるとさすがにまだ少し痛むのですが(苦笑)。

 それにしてもさすがコトー先生、頼りになります。ありがとうございました。明日からはまた、まだまだ忙しい仕事の日々が始まります。傷も癒え、今週もまた、私は私の戦場に赴くこととしましょう。まぁ仮に傷だらけでも、それでも戦わなならん時は戦わねばならんのですが。

2009年1月26日月曜日

一挺のバイオリンで描かれた宇宙

 久し振りにバッハの無伴奏バイオリンソナタ&パルティータをギター編ではなく本来のバイオリンの演奏で聴いた。演奏はシェリング。学生時代に就職活動をしていたとき、大阪に行ったついでに買ってきたヤツだ。バッハの曲はこの無伴奏バイオリンソナタ&パルティータに限らず、本来の楽器から別の楽器にトランスクリプションを行ってもその魅力が全く失せないものが多い。

 例えば『シャコンヌ』を含むパルティータ2番は実はギター編でもよく音楽の魅力が引き出せていると思うし、実は私は『シャコンヌ』に至ってはギター編の方がバイオリンよりよいと感じている。セゴビアが初めてこの曲をギター編で世に出した時はバイオリンに対する冒涜呼ばわりされたものだが。この曲は、バイオリンではどうしても最初と最後の和音の響きがどうしても甲高くヒステリックに聴こえてしまう。名手シェリングやミルシテインですらそう感じる。その点ギターでは奏者に人を得ればその和音が実に荘厳に響く。その後に繰り返される変奏も本来ギターのために書かれていたかのように自然に響く。最大の盛り上がりどころである高速のアルペジオが続くパッセージもバイオリンではともすると音や響きが曖昧になりがちだが、ギターではそのアルペジオが一音一音堅牢に、粒を揃えて響かせることができる。私は随分前にも「バイオリンは単音に悲しみを宿し、ギターは和音で悲しみを響かせる」とこの日記で書いた。パルティータ2番ではその楽器の個性がうまく音楽にはまり、ギター編でも素晴らしい音楽が引き出される。

 だが、パルティータ3番BWV1006はやはりバイオリンがよい。あのプレリュードの、高温の伸びやかな旋律の響きはギターでは出ない。元の曲が素晴らしいのでギターでもよい音楽になるが、あのバイオリンの繊細に輝くようななめらかな高音の節回しはギターではできない。ローロのゆったりした歌もギターではともすると間が持たない。ロンド風ガヴォットもやはり展開部の伸びやかな歌がバイオリンで気持ちよく響く。これをギターでカバーするには、それだけで演奏者に相当の技量がいる。まぁ、ギター編でも素晴らしい音楽になるには違いないのだけれど。

 ところで、バッハという人はもしかしたら純粋に音楽を目指したかった人なのではないだろうかと、ふと思うことがある。それは広い意味での音楽ではなく、楽器や編成にしばられず、極論すれば記譜だけで表現できなくもない、楽器も音色もない、ただ音列としてだけの純粋音楽だ。『フーガの技法』や『音楽の捧げもの』に明確な楽器指定がないのは、その意味での純粋音楽を極めたかったからではないのだろうか。楽器の物理的な制約や、ともすれば音色からの制約すら離れて、ただ純粋に理論を極めた音楽を作りたかったのではないだろうか。バッハの時代の作曲家は基本的には委嘱作品のような形で、スポンサーのために音楽を作っていた。ただ、その時代でも稀に作曲者自身が誰のためでもなく、ただ作りたいから作った曲があるという。間違いなく、『フーガの技法』はそうだ。楽器編成や、ともすれば曲調まで依頼されて作る音楽ではなく、そういった依頼のしがらみはおろか楽器のしがらみすら捨てて、彼は彼の音楽を作りたかったのではないだろうか。無伴奏のバイオリンやチェロのためのソナタという、事前に例がほとんどない音楽で彼が絶後の名作を生み出したのも、最小限のシンプルな楽器のみに編成を絞ることで、楽器編成という音楽に関する音色という色彩的な付加要素を排除したかったのではないだろうか。

 私はベートーヴェンが最晩年まで弦楽四重奏という形式で音楽を書き続けたのにも同じ理由があるのではないかと思っている。管弦楽の様々な楽器の音色は音楽に多様な色彩をもたらすが、それはその音色の多様性が逆に音列としての音楽を見えにくくする枷ともなる。バッハや弦楽四重奏を作る時のベートーヴェンは、そこから解放されたかったのではないだろうか。今となっては、確かなことを知ることはできない。

 だが、バッハはその無伴奏バイオリンという編成で、「一挺のバイオリンで宇宙を描いた」と言われる程の深遠な世界を作り出した。ベートーヴェンは後期の弦楽四重奏で精神の崇高な高みにまで達した。そこには彼らが余計な要素を排した上で純粋に音楽と向き合い、精神の奥深くまで潜り込んでいった結果が現れているような気がする。彼の曲に楽器を変えても魅力が消えない作品が多いのは、それだけ楽器という"色"に頼らず音楽を作っていたという証拠だろう。

 バッハは『フーガの技法』で病床、最後のフーガを書く手を止めて天へと向かった。彼は、何故最後あの極限の技巧的名作を完成させなかったのだろうか。ただ単に力尽きただけなのだろうか。もしかしたら、彼は知っていたのかもしれない。対位法、ポリフォニーという音楽の完成者は自分であり、そこが頂点であることを。彼以後、音楽はポリフォニーからモノフォニーへと移行して行き、その後彼程の対位法作曲家が世に出てこないことを。最後のフーガを完成させてしまえば、対位法による技巧はとうとう極まってしまい、本当の完成を見てしまう。その完成は、本当の対位法の死を同時に意味することを、彼は意識したのかもしれない。これも、今となっては確かなことは知ることができない。

 夜、久し振りにバイオリンで無伴奏ソナタ&パルティータを聴きながら、当てもなくそんなことを考えていた。今日は日曜日。大倉山の梅林では、少ないながらも咲いた梅が冬にしては暖かい日差しの中、静かに上品に佇んでいた。

2009年1月25日日曜日

故障者リスト入り

 どうもしばらく更新をさぼってしまっていました。仕事が忙しかったこともあるのですが、10日程前から左肩甲骨の激痛に悩まされ、インドメタシンでごまかしながら這々の体で仕事をするという状況が続いていたもので、なかなか家でまでPCに向かう気力がなかったのです。しかも今週は左肩甲骨だけでなく、ある日は左肘、また別の日は右手首と、日替わりに場所が変わる関節痛にも悩まされていたので厄介です。そんなわけでここ二週間ばかりは、体調を崩したというよりは故障を抱えた体で生活を続けていたわけです。とりあえず今日、本当は病院に行きたかったのですが閉まっていたので「まぁ、とりあえず」と唯一開いていた接骨院に行き、ホントにタップしようかと思う程に痛いマッサージを受けてきたら結構痛みは軽減しました。意外に、行ってみるものです。

2009年1月6日火曜日

謹賀新年

 随分と遅くなってしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 多くの人が仕事始めの今日、人が多すぎる都会にあって休み明けに一番憂鬱になるのが月曜朝八時の満員電車なわけですが、今日は意外と混雑もそれほどではなく、この正月休みは帰省はしたものの親戚回り以外はほぼ何もせず惰眠を貪った甲斐あって(?)、珍しく身体の軽い出勤でした。やはり疲れがたまっていない状態というのはいいものです。昨年末は会社の納会の後、各自個別で分かれた飲み会でも各所で「あのままではayumは倒れる」と噂された(らしい)くらいハードな日々だったわけですが、まぁまぁなんとか回復できました。

 さて、また、私は私の戦場に戻るとしましょう。

2008年12月29日月曜日

薬事法改正案

 厚生労働省が薬事法の改正案を出している。この改正案が一部で大きな議論を呼んでいる。その中身には、ネットで買える薬を大きく制限するものが含まれているからだ。この改正案がそのまま施行されることになると、風邪薬や胃薬ですらネットで買えなくなる。それだけならまだしも、痔やら水虫やらといった、少々対面販売では買いづらい薬もネットで買えなくなる。消費者の面からしても非常に不便になるし、小売業者からしてもたまったものではない。この法改正には楽天を始め、多数の業者が抗議行動を行っている。

 ネットで薬を売ることの危うさはわからないわけではない。私は薬に関する知識は並よりはあるし、仮に不明点があってもそれを調べて理解する術をいくつも持っているからよい。が、一般的には薬は良くも悪くも人体に影響を及ぼすものだから、使い方を誤れば大変なことになりかねない。それを防ぐのも薬事法の目的の一つだ。だから、方向性としてはまったく理解できない訳ではない。ある程度、仕方ないかなと思う側面もある。が、コンビニで買える薬すらネットで買えなくなるのも如何なものか。コンビニは対面販売だからO.K.、ネットは対面じゃないからNGという論理らしい。薬剤師のいないコンビニと、薬剤師がいるネット販売と、どっちがいいのか?

 薬の販売に関しては必要性や使途の問題等含めて考えると色々とデリケートな問題に突き当たらざるを得ないので、明確に一方の論理だけを持って結論を出すことはできない。利用者側と供給者側の間で、利便性と安全性の間にどこで線を引くかというバランスの話に結局なっていく。そう考えると、この法律は少々そのバランスの崩れたところまで線を持って行き過ぎているように思える。制限がきつすぎるのではないか。しかもその制限に対する理由の説明が不明確かつ理不尽で、根拠も希薄なのではないか。私自身ネットで薬を買うこともままあるので、今回、珍しく反対署名運動に参加した。私が反対と考えるから同調してほしいというわけではないが、この問題は一度考えてみてほしい。多少視点のバランスが悪いところは否めないが、楽天がこの問題を非常によくまとめてくれている。目を通してみる価値はあると思う。