2006年11月30日木曜日

無題

 寡黙さを、選ぶといい。饒舌であることを蓑としながら。

2006年11月27日月曜日

マタニティ・クラシック

 今日はみなとみらいの方までコンサートを聴きに出張っていました。和光堂が提供している『岡崎ゆみファミリーコンサート』という企画で、応募して抽選に当たれば無料でコンサートが聴けるものです。この企画には通常ならクラシックのコンサートには入れない未就学児童とその親を主な対象とした『ベビー&ファミリークラシック』と、妊娠中の女性とその連れを対象とした『プレママ&ファミリークラシック』があり、今回は後者の方に行ってきたわけです。演奏者の岡崎ゆみ氏『クラシックを聴くと良い子が育つ』という著作もあり、幼児のためのコンサートを各地で開くなど、家族で楽しむクラシックを推し進めるその道の第一人者とのこと。まぁ、たまにはそんなのもいいでしょう。

 ショパン『華麗なる大円舞曲』で始まるコンサート、曲目はやはり聴きやすいものが中心ですが、中にはショパンのエチュード『木枯らし』等、結構聴く側にとってもいかつい印象を与える派手な曲も織り込んであったりするので油断がなりません。ショパンに始まり、ルービンシュタインリストラフマニノフを経由して最後はベートーベンピアノソナタ『月光』にて第一部終了。ちょっと意表を突かれた選曲もありました。

 しかし岡崎ゆみ氏、マタニティ・クラシックという割には結構強気な演奏します(笑)。一曲目の『華麗なる大円舞曲』からしてかなりカツカツに強調されたスタッカートと、随所に聞かれるかなり強烈な打鍵が鮮烈に響きます。えらい主張の強いピアノだなと、そんな印象を受けました。まぁでもなかなかいいです。『華麗なる大円舞曲』や『木枯らし』、『月光』なんかではその強気さがいい方向に出ててよかったです。「これホントにマタニティか!?」というツッコミはありますが(笑)。

 休憩を挟んでの後半はマタニティビクスの実演に始まり(この辺がさすがプレママコンサート)、ソプラノが出てきて『パパゲーノ』や『アヴェ・マリア』を歌ったり、バイオリンが出てきて『ツィゴイネルワイゼン』弾いたり、なかなかバラエティに富んだコンサート内容でした。欲を言えばバイオリン、『ツィゴイネルワイゼン』やるならもっと頑張ってほしかった・・・。まぁ私の中でこの曲はハイフェッツの演奏が非常に強く頭にこびりついてしまっているので、それと比べるのはさすがにかわいそうな気もするのですが。

 というわけで、マタニティ・クラシックを堪能した休日でしたとさ。ちなみに現在胎教・情操教育として、寝る際のBGMを毎夜選定していたりします。例えば、こんなCD達です。

『The Night Music』 アンドリュー・マンゼ指揮イングリッシュ・コンサート
『ルクレール:VN・ソナタ第3番』 グリュミオー
『The Melody At Night, With You』 キース・ジャレット
『バッハ:ゴールドベルク変奏曲』 グレン・グールド
『モーツァルト:ピアノ・ソナタ第8・11・15番 <<キラキラ星>>の主題による変奏曲』 クリストフ・エッシェンバッハ

 等です。何故かエッシェンバッハのCDがAmazonでもHMVでも見つからなかったので、比較的内容が近いCDのリンクになってます。


2006年11月26日日曜日

初対面

 今日は午前中、妻と一緒に産婦人科に行った。妻は妊娠5ヶ月。3週間に一度の定期健診で、初めて私も一緒についていった。これまでは妻が一人で通院していたので同伴は初だ。現在のところ経過も順調なので、同伴の目的はお腹の中にいる子供との対面になる。病院に行く度に超音波写真は撮ってもらえるので、写真ではまだただの袋にしか見えない頃から見ているが、実際に動く姿を見るのは当然初めて。嬉しいような恥ずかしいようなおっかないような、そんな微妙に入り混じった気持ちで待合室に座っていた。

 妻が通っている病院は古い個人経営の病院で、最近流行の4Dエコーはない。ので、伝統の(?)2Dエコーでお腹の子供と初のご対面となる。先生が器具を妻のお腹に当てると、画面にぼやっと白黒のグラデーションで曖昧な壁に囲まれた空間が現れる。少し位置を調整していくと、今度はその真っ暗な空間の中に、白く丸い輪郭が浮かび上がってくる。

「これが頭だよ」

 言われるとなるほど、人の頭に見える。「ちゃんと脳みそも入ってるね」とは先生の談。頭の中央にぼんやり見える線がどうやら、右脳と左脳の分け目らしい。そしてまた少し位置を調整していくと、今度は体や、手足が見えてきた。暗闇から白い輪郭が浮き上がってきて姿を見せるその映り方は、何故か「もきゅっ」という擬音を頭によぎらせた。「もきゅっ」と浮かび上がってくるのだ。めそかよ!お腹の子供は手足を上下に小さく動かして、たまに頭を回したりして動いている。先生曰くお腹の中の子供はほとんどの時間寝ているので、動いている姿を見るのは実は意外に難しいらしい。その意味では、今日は運が良かったようだ。でも、見ているうちに眠ってしまって、すぐに動きがなくなってしまったのだけれど(笑)。

 初対面というよりは、まぁどちらといえばのぞきに近い形だけれど、ともあれ自分の子供が動いているのを初めて見た。まだ深く大きな感動というほどではない。けれど確かに新しい命が息づいているんだなと感じた。不思議なものだ。子供。自分の遺伝子と、妻の遺伝子が受け継がれている。どういう形でかはまだ全然わからないけれど。男か女かすら、まだわからないけれど。とりあえず、"実感"という言葉が実体になりつつある。自分は、親になる。どんな子供が、生まれてくることか。まぁ、なんか一癖あるのが出てくることは確かなんだと思うのだけれど(苦笑)。

 というわけで子供が生まれてくるのは、来年5月上旬の予定となっております。

2006年11月24日金曜日

PORT ELLEN - ポートエレン17年 プロヴナンス

PROVENANCE ポートエレン17年
Distillery : PORT ELLEN

Years : distilled in 1982-Winter and bottled in 2000-Winter, aged 17 years

Area : Islay

Bottler : PROVENANCE

Cask Type : Unknown

Product : 43% vol, 700ml

Price : 7,000yen

Remarks : -


 1983年に閉鎖され、もう今後は残っているストック分しか出てこない蒸留所、ポートエレン。「最も閉鎖されるべきではなかった蒸留所」という声も多く、その美しい名前の響きと味わいを惜しむ愛好者は多くいます。今回私が手にしたのは1949年操業の老舗ボトラー、ダグラス・マックギボン社がノンチルフィルター&ノンカラーリングで瓶詰めしているブランド『プロヴナンス』の17年もの。このプロヴナンスは他にも19年、22年、23年、25年、そして23年と25年のジョン・ミルロイコレクションと、執拗なまでにポートエレンをリリースしています。何でも創業者のダグラス・マックギボン氏が最も愛した蒸留所がこのポートエレンだったとか。・・・にしても1ボトラーとしてはストック持ちすぎな気もしますが。また、このプロヴナンスというブランドは蒸留された季節によってラベルの色を使い分けることでも有名。春は緑、夏は赤、秋は黄、冬は青です。今回のポートエレンは瓶にも冬の蒸留と書いてあるので、青いラベルとなっています。

 グラスに注いだ瞬間に、濃い潮の香りに、熟成に使用された樽は公表されていませんが、まぁ濃厚なアンバーの色合いからしても明らかにシェリー樽でしょう、ある程度以上のシェリー樽熟成を経たモルト特有の生醤油のような、しかしマッカランのような甘みはあまり感じない、濃厚ながらもドライな印象を持つ独特の香りが広がります。華やかというのとは違う、重厚でいて、それでいて奇抜な個性も持ち合わせた、落ち着いたアイラモルトの香り。強烈にピートが炊かれたアイラ特有の"正露丸のような"と形容される薬くささが、ラフロイグほどきつくはないにせよしっかりと存在しています。口に含むと、すぐにその香りが口の中一杯に、そして鼻孔の中まで満ちあふれて、まろやかな角のないしょっぱさと、それでいて輪郭がぼやけない枠のしっかりしたシャープな味わいが広がります。そして後口にほんのわずかな麦の甘みと、それ以上の強烈な香りとしょっぱさを残しながら、長く、長く印象を残してなかなか消えていきません。そのどっしりと落ち着きながらも強烈な個性をもった香りと、潮っぽさを常に口の中に感じさせながら最後にほんのわずかな甘みが顔をのぞかせる味わいは、PORT ELLENという優雅で美しい名前に似合わず、そう、まるで晩年のヘミングウェイのような老人が上品で暗いバーのカウンターで一人どっしりとかまえて飲むような、そんなモルトのように思えます。将来、このモルトが飲めなくなるのは確かに惜しい。重厚な個性が素晴らしいモルトです。

 余談ではありますが、このポートエレン蒸留所が閉鎖された1983年はモルトにとって大災厄の年。このポートエレンの他にもバンフ、グレンアルビン他いくつもの蒸留所が閉鎖されています。80年代はモルト大不況の時代で、倒産したり生産の縮小を余儀なくされる蒸留所がたくさんありました。以前紹介したローズバンクが閉鎖されたのは1993年ですが・・・。その後のモルトブームまで生き残ることができなかった蒸留所達。このポートエレンやローズバンクは、確かに閉鎖されるべきではなかった。まったく性格は違いますが、どちらも実においしい、素晴らしいモルトを作ってくれています。これほどのモルトを作る蒸留所が閉鎖に追い込まれる。どの世界でもそうですが、いいものが常に生き残るとは限らない。このモルトを飲んでいると、色々とそんな世界の理不尽さにまで考えがいってしまいます。


2006年11月21日火曜日

晩秋・雨・平日・夜・バス

晩秋の重い霧雨の夜、家路のためにバスに乗る
最終間際の小さなバスに、うつむき無言の人が詰まる
病的に、震えるバスの、蒼白の弱い灯の中で、
立つ人の影がぼんやりと、重なり闇を下に落とす

ずっしりと沈んだ空気の中、引きずるようにバスは進む
人を乗せて、雨を乗せて、重苦しい坂をバスは進む
今日を乗せて、闇を乗せて、湿った道をバスは進む

2006年11月19日日曜日

音楽の指向性と20世紀音楽

 最近、ワーグナーやマーラー、ストラヴィンスキーといった、19世紀後半~20世紀の作曲家の、比較的編成の大きな歌劇や交響曲的なものを改めて真面目に聴いてみている。実は、そんなに好きではなかったのだ。彼らの作品が好きではないというよりは、そもそもある程度以上編成の大きな音楽が好きではなかったのだ。具体的には弦と金管が両方必要になる程度の大きさの編成になると、もう毛嫌いしていた。だから自分でかける音楽は、大きな編成のものでもせいぜいバッハの管弦楽組曲か、モーツァルトのシンフォニーくらい。ベートーベンのシンフォニーは余程気分が乗っていないとかけない。そんな感じだったので、巨大な編成を必要とするワーグナーやマーラーなんて、そもそも真面目に聴こうとすら思っていなかった。例外として、ショスタコーヴィチだけは昔から好きだったのだけれど。

 そもそも、大編成の交響曲や歌劇があまり好きでなかったのには明確な理由がある。それはひとえにそれらの音楽があまりに外向きに過ぎるからだ。音楽は編成が大きくなればなるほど、当然ではあるが自分一人の中に対する指向性だけでは解決ができなくなってくる。それは指揮者に対する指向であったり、あるいは他の楽団員に対する、自分以外の音や空気に対する指向性であったり、とにかく意識のベクトルを外に向けざるをえない。自然、音楽それ自体も一個人の意識の内面に潜っていくというよりも、外に、世界に対して働きかけるような形で作用する。個人の中に潜っていくのではなく外の世界へ。大編成の曲は、もはや音楽作品自体それがそのような指向性を持ってしまうし、それを演奏する側も聴く側も、無意識のうちにそういった指向性の元に音楽を表現し、体験する。ベートーベンやワーグナーの壮大な音楽や、その他現在では退廃音楽と呼ばれている様々な作品達がナチス・ドイツに利用され、旧ソ連の共産体制の中ショスタコーヴィチの音楽が(物議を醸しながらも)政治的に利用されたことも、それらの音楽が持つ外向性を所以とするのは明らかだ。大編成の音楽は、個人に向かうのではなく世界に、社会に向かう。音楽が政治的に利用されたから嫌いだと言っているのではない。単純に、私はそういった外向性を音楽には求めていない。それだけのことだ。

 そもそも音楽は、元々は祈りから始まった。原初の祈りが宗教行為だったとして、その祈りは個人的なものだったのか、それとも社会的なものだったのかというのは諸説あるところではあるが、明らかなこととして、原初の祈りは人や人が織りなす社会に対してではなく、人の力が及ばない自然や超自然に対して行われていた。その超自然が形を変えると神となる。その祈りのバリエーションの一つとして始まった音楽も、元々は言ってしまえば神に対して捧げられるものであった。だが、それは時代とともに次第に人の立つ地平にまで降りてくる。いわゆるアーリー・バロックの時代に既にその傾向は見られる。その当時の西洋音楽はほとんどが教会で演奏される宗教音楽の範疇にあった。それでも少しずつ、楽器の技法を駆使するための楽曲や、作曲技法のための楽曲、そして直接的に人に対して捧げられる音楽が出始めてくる。ただ、この頃はそれでもまだ、音楽は個人のものだった。神を存在理由とする音楽は、最終的には内省へ向かう。

 音楽が本格的に社会的になっていくのは、やはりベートーベン以降だろう。彼の交響曲第3番『英雄』は、その意味で音楽史的にも音楽精神史的にも、非常に大きな転機となったことは間違いない。フランス革命に欧州中が動揺する中、神に対してでも貴族に対してでもなく、初めて明確に政治的な意図を持って"民衆"のために書かれ、そして受け入れられた音楽。ここに至って本格的に、音楽は神から人へとその対象を変える。そして今に至るまで、音楽の捧げられる対象は人から神へは返っていない。私の考えではその後、シェーンベルクやベルク等の新ウィーン学派が調性や旋律の解体を始めた辺りから今度は無意識から意識へという音楽作用の対象のシフトが行われていくのだが、そこまで語り始めると長くなりすぎるので今は口をつぐむ。

 そのように、外向的な傾向を持つ音楽を私は好まなかった。どこまでも、奥深く自身の意識・無意識の深みにはまっていけるような、そんな内向的な音楽ばかりを好んでいた。また機会があればこれについても語るが、そう考えると私自身のバロックと現代曲という極端にアンバランスな音楽傾向も一応理論的な説明がつく。逆に言えば、ベートーベン以降から第二次世界大戦以後数十年の音楽は、ギターやピアノの独奏、弦楽四重奏等の一部の例外を除けば基本的に私自身が避けて通ってきた音楽になる。最近は、そういった音楽も避ける前にまず聴いてみようと思い直したわけだ。

 きっかけは、『20世紀音楽 クラッシックの運命』という本を読んだことだ。音楽は、特に外向的な性質を持つ19世紀後半~20世紀半ばまでのものであれば尚更、歴史とも大きな関わりを持つ。音楽を考えていくことは歴史を、人が辿ってきた精神史を考えることにもつながる。そこに興味を持った。

 私の音楽に対する基本的な考え方は、歴史や背景等は音楽を聴く際には極力意識しないことだ。ベートーベンはフランス革命の動乱の中、自身の難聴の苦悩の中で『英雄』を書いたかもしれない。ショスタコーヴィチは当局の厳しい目をかわすために、敢えて交響曲第五番をアイロニカルに書いたのかもしれない(彼が後に語ったところによれば、あの最終楽章のフィナーレは「勝利の讃歌などではなく、"ほら、喜べ!"と強制された凱歌」だそうだ)。スペイン内乱の中で曲を書き続け、最後はフランコ派に処刑されてしまったアントニオ・ホセは、どのような心境であの『ギター・ソナタ』を書き綴ったのか。

 ただ、そんなものは音楽それ自体には関係がない。音楽は、それが生み出されたコンテクストとは関係なく、ただそれ自身無垢に人の心を揺さぶる力を持っていなければならないというのが私の考えだ。だから、曲を聴く時には音楽それ自体に集中し、そのような背景は考えないようにする。そういった聴き方をしてきた。音楽は、作曲者や演奏者は理論や歴史・背景等を学び、糧とする義務があるが、聴く側にとっては逆にそういったものは音楽自身に対する印象のノイズとなって働くというのが私の考えだ。作曲者や演奏者が理論や歴史背景等を学ばないのはただの怠慢で、そこで得た知識的なものも含めてそれを如何に音楽に組み込んでいくかが送り手としての音楽家の責務となる。逆に、受け手は(少々残酷に過ぎるようだが)そういった音楽自身以外のコンテクストは排除した上で、純粋に音楽を享受することで音楽それ自身の価値を体験しなければならない。そう考えていた。大雑把にまとめると、音楽の送り手としての作曲者や演奏者は、知らなければならない。音楽の受け手としての聴衆は逆に、知ってはいけない。それによって、送り出された音楽がそれ自身の力によって受け手にどのように解釈されるか、どのように影響を与えるかといった音楽それ自身の力が試されるのだ。ただ、敢えてそこまで音楽に対して純粋さを求めるのでなくても、歴史背景や音楽史の流れを意識しながら聴いてみるのも、それはそれで面白いのかもしれないと思い始めた。例えそれが時に音楽に対する色眼鏡として働くことがあるとしても。その色眼鏡を作り出す力もまたある意味では音楽の力なのかもしれない。

 そう思いながら、ワーグナーやマーラー、ストラヴィンスキーといった、19世紀後半~20世紀の作曲家の、比較的編成の大きな歌劇や交響曲的なものを改めて真面目に聴いてみている。マーラーの交響曲第二番『復活』など、実に劇的で壮大で、美しい。やはり、喰わず嫌いはしないにこしたことはないものだ。


2006年11月15日水曜日

2006年11月13日月曜日

CD大量購入

 久し振りにCDを大量に購入しました。といってもAmazonHMVで数週間のブランクを空けて別々に頼んでいたCDが、奇しくも今日一気に届いたという話なのですが。最近はネットでCDを買う時、AmazonHMVを使い分けています。それぞれ、長所と短所があるのです。

 まずHMV。ここで何よりも魅力なのがいつ終わるのかわからない"輸入盤CDどれでも3点買うと25%オフ"。文字通り、ジャンルも価格も何も問わず、とりあえず輸入盤を3枚まとめ買いすると問答無用で25%オフになるというキャンペーン。クラシックならこれと"EMI Classic 2点買うと20%オフ"のおかげで色々なCDがかなり安く買えます。これらのおかげで価格的に実店舗のHMV渋谷店、タワーレコード渋谷店、そしてAmazonと比べてもダントツに安くなる。まぁクラシックは基本的に日本盤買いませんからね。日本盤は何故か音質がよくない。ライナーノーツが読みたいなら英語があれば問題なし。この輸入盤3枚で25%オフはかなり魅力です。知る限りこの半年くらいずっとこのキャンペーン続いてますが、いつ終わるんでしょうか?ずっと続いていてほしいものです。HMVはポイントも付くので、たまればさらに割引が付くのもいいところです。

 そしてAmazon。ここは何と言ってもその圧倒的な品揃え。HMVオンラインは実店舗と比べれば遥かに品揃えはいいですが、やはり特にクラシックはAmazonと比べると品揃えが全然悪い。といっても普通のクラシック愛好者が聴くような一般的なものがないということはないのですが、例えばここ数年私がハマっている作曲家ビーバーの代表作『ロザリオ・ソナタ』で、ラウテンバッハー演奏の盤が素晴らしい名演らしいと聞きつけて探したときなんかはHMVじゃ全然引っかからないのにAmazonではすぐ見つかりました。圧倒的な品揃えにA9検索エンジンによる強力な検索。これがAmazonの最大の魅力であり武器です。マニアックなCDを探す時はHMVで見つからなくてもAmazonなら見つかる。他にも今回Amazonで買ったステファノ・グロンドーナのアルカス作品集『La Leona』なんかもHMVじゃ見つかりませんでしたが、Amazonでは普通にすぐ検索に引っかかって他の注文分も含めてちゃんと一週間くらいで届きました。マーケットプレイスを含めれば廃盤であっても手に入れられる可能性が大いにある無限の在庫に、A9検索エンジンの精度の高い検索。そういう意味ではやはりオンラインショップ最強はいまだにAmazonです。

 というわけで、CD探す際はとりあえずHMVの方が安いのでまずHMVで探して、なければ次はAmazonというのが最近の私のネットでのCD購入パターンです。ちなみにですが、本日届いた分ではHMV4枚、Amazon3枚でした。正確には2枚組とかあるのでもう少し枚数増えますが。


2006年11月12日日曜日

風邪ひき

 風邪をひきました。一昨日くらいからなのですが、どうも風邪ひくのも久し振りだなぁと思っていたら、なんとしっかり4月にひいてました。人の記憶なんて当てにならないものです・・・。

2006年11月6日月曜日

水難の三連休

 この三連休はなかなか水難の相が現れていました。何だったかのTVの占いでは今週末最もハッピーなのは私のさそり座だったはずなんですが・・・。ともあれこの連休中、見事に三つの水難にあったのです。

 水難の一つ目は金曜夜、家で鍋をしようとしていた時のことでした。豆乳鍋の素を買ってきて、一緒に土鍋もコンロも買ってきて、意気揚々と鍋を始めました。土鍋の蓋を閉めて、火を着けてしばらく待ちながら豆乳鍋の説明を読んでいました。「ふむふむ、豆乳の性質上、非常に吹きこぼれやすいので気をつけてくださいか、なるほど」等と思っていたら、ぼちぼちグツグツと煮える音がしてきます。「じゃあ蓋を取ろうか」と思ってみると、鍋つかみがウチにはないことに気が付きます。皆さんご存知のことと思いますが、土鍋の蓋なんて素手ではとてもつかめたもんじゃありません。やばい、どうしようかと思っているうちにみるみる間に豆乳が吹き出し始めました。鍋の蓋の周りにフツフツと泡を作ったかと思えば、次の瞬間には一気にドッと溢れてきます。ナウシカで腐った巨神兵が崩れて周囲を浸食していく様さながらに、豆乳が鍋から外に一気に押し寄せてくるのです。ジューッと、豆乳がコンロの火を消してしまいます。コタツテーブルの上一面にもあっという間に広がり、床にまで垂れてきます。それは一瞬の出来事でした。「なるほど、確かに非常に吹きこぼれやすいな・・・」と、妙に感心したとのことです。まぁ、冷静に考えれば蓋を開けるのに手間取っている間に、まず火を弱めればよかった話のような気もしますが。

 次の水難は土曜の昼。私は金魚の水換えをしていました。水槽の水をポンプでバケツ一杯分汲み出して、そこに水草と金魚を入れます。そして残りの水をポンプで排水してから水槽の掃除にかかるわけです。その残り水を排水している際に、部屋のチャイムが鳴りました。以前購入していたダイニングテーブル・コタツの配達です。慌ててポンプを水槽から外して出たはいいのですが、何とそのとき、ポンプの排水口を床の上に置いたまま出てしまったのです。当然、戻ると床は水浸しになっていました・・・。やれやれです。

 最後の水難は同じく土曜の夜、私は食事をしながらワインを飲んでいました。ワインを飲む際は、普通の750mlのものなら大抵二日に分けて飲みます。一人で空けるのなら大体それで適量といったところなのですが、その日はワインがたまたま好みに合っておいしかったもので、グイグイと一気に一本空けてしまったのです。それでもその時は気分がよかったのですが、後からが大変でした。朝方にもの凄いむかつきと頭痛で目覚めます。喉も舌までカラカラです。とりあえず水を飲んで、激しい頭痛と悪心に耐えながら布団の上をのたうち回ります。胃からこみ上げてくるものを感じたので、必死でトイレまで我慢してリバースの儀式を行います。いやー、久し振りに、たまりませんでした。その後吐くところまで行ってしまった際の飲み過ぎのリーサルウェポン、五苓散を飲んでしばらく耐えていると頭痛も吐き気も落ち着いてきて、再び眠りにつくことができたとのことです。しかしたかだかワイン一本でそこまでひどい症状が出てしまうとは情けないものです。最近、どうも以前より酒の回りが早くなったような気がするのですが、疲れてるんでしょうかね・・・?

 ついでに、五苓散について少々説明しておきましょう。五苓散は文字通り5つの生薬が配合された漢方薬で、大雑把にいうと体内の水分循環の不調和を改善する薬です。5つの生薬の内4つまでが体内の水分の調整を行う役割を担っているところからも明らかです。この薬は口の乾きや胃水停滞といった症状を処方の目安に、体の中で滞った流れを改善して吐き気や下痢やむくみなんかによく効く薬です。実は、二日酔いっていうのはこの水分循環の不調和以外の何物でもありません。口の乾き、胃に残った酒や食べ物はつまりは胃水停滞です。以前やはりひどい二日酔いのとき、元々は強い嘔吐をともなう風邪をひいた際に処方された五苓散が残っていたのを思い出し、原理的に効くはずだと思って飲んでみたらこれがまたビックリするくらいよく効いたのです。吐き気も頭痛も口の乾きも、通常では考えられないくらい早くスッと引いて、しかも起床後への影響も大きく軽減できるのです。ウコンは二日酔い防止には非常な効果を発揮しますが、いざ吐くくらいまで飲み過ぎてしまうとそこまでの効果は期待できません。ひどい二日酔いには五苓散。私の必殺の処方です。よく見ると、カネボウだけは効能に二日酔いも入っています。五苓散は薬局でも購入できるので、よく飲み過ぎてしまう方は常備薬として持っておいてもいいのではないでしょうか?

 ともあれそのように、何だか無駄に3回も水難にあった連休でしたとさ。どっとはらい。


2006年11月3日金曜日

デイヴィッド・ラッセル@東京文化会館小ホール

 というわけで行ってまいりました、ラッセルのコンサートです。私が最も敬愛するクラシック・ギタリストの一人、デイヴィッド・ラッセル。見逃すわけにはいきません。元々David Russellのカナ表記は"デビッド・ラッセル"にしていたのですが、パンフに合わせて今回から"デヴィッド・ラッセル"に変えます(?)。今日のコンサートに確実に行くために、会社は一日休みまで取りました!いや、下手に定時退社とか考えてると逃げられない電話がかかってきたり、いきなり急な仕事が入ってきたりする危険性があるので、確実に観るためには休むしかないという・・・。そもそもクラシック・ギターのコンサートに行くこと自体実は相当久し振り。そりゃ気合いも入ろうってもんです。

 今回の会場は東京文化会館小ホール。前回はトッパンホールだったので、会場のランクは一気に上がっています。トッパンホール、ギター独奏は非常によく響くいいホールなのであそこはあそこでいいと思うのですが。とはいえ今回の東京文化会館小ホールも昔から独奏楽器の演奏では東京有数の響きの良さを持つと定評のある伝統・格式のある場所。以前福田進一のデビュー20周年記念リサイタルの際もここに来ましたが、確かにギターも非常に綺麗に鳴る箱です。この会場変更は、きっと彼のCD『Aire Latino』がクラシック器楽ソロ部門でグラミー賞を受賞した故でもあるのでしょう。ランクアップです。

 ジュリアーニの『大序曲』から始まる今回のコンサート、一曲目からいきなり楽しみです。人身事故で山手線と京浜東北線が遅延しているとかで10分押しで始まりました。『大序曲』と言えば私がクラギタに入ったばかりの1回生の頃、きよと京都アスニーに尚永ギター教室の発表会を見に行った際に京大の聖帝が弾いていた曲です。その演奏を聴いて受けた衝撃は計り知れませんでした。私がまだタルレガ教則本の初めの段階で苦戦していた当時、こんな曲をこんなに見事に弾いてみせる同回生は何者かと。それ以来、私の中では密かに聖帝のテーマ曲はこの『大序曲』になったとのことです。ちなみにその数年後に本人に訊いてみたところ、「大序曲?あーまぁ得意のうちやなぁ」という実に淡白なお返事をいただいたとのことです(笑)。

 というわけでラッセルの『大序曲』です。正直、これがどうもイマイチだったのです。なんか音も全然響いてこなくてか細いし、持ち前の透明感のある音色も生きてません。何よりも曲の解釈が全然気に入らなかった(笑)。『plays Bach』の中のシャコンヌを聴いた際も思ったことですが、どうも彼はたまに揺らす必要のないところでテンポを揺らして、それが結果として音楽の軸をずらしてしまうことがあるように感じます。今回の『大序曲』も妙なところで不自然にテンポを落としたりして揺らされるせいで、この曲特有の華やかな疾走感が失われてしまっていて好きじゃありませんでしたね。この曲はテンポを揺らすことで情感を表現しようとするよりは、そこは音色と強弱だけにまかせて基本インテンポでキッチリ弾ききった方がいいように思うのですが。前回は一曲目の『悪魔の奇想曲』から一気に引き込んでくれたラッセルですが、今回は出だしイマイチのようです。

 とはいえそこはさすがラッセル、2曲目のJ.S.Bachの『無伴奏フルート・パルティータ イ短調 BWV1013』ではいきなり音の出もよくなって、和音の透き通った美しい響きも、単音の暖かく優しい音色も、天井が非常に高い東京文化会館小ホールの空間全体に鳴り始めるのです。そして前半最後のグラナドスの『詩的ワルツ集』と、プログラムには載ってないけれど急遽演奏してくれたメルツの『ハンガリー幻想曲』。これらの2曲が最高でした。『詩的ワルツ集』はCD『Reflections Of Spain』内でも素晴らしい音色と演奏を聴かせてくれていて、今回のコンサートでは前々から楽しみにしていた曲目です。いやー、よかった。最初の入りの和音が生で聴くとCD以上に実に美しい。ラッセルの和音はまるで鳴った瞬間にきらめき、瞬いているかのよう。暖かく、優しくなめらかな単音の旋律が、和音の旋律に変わった瞬間に音が本当にきらめいているように感じる。ただ音が複数同時に鳴っているのではなく、ただ響いているのでもなく、複数の音がお互いを昇華させながら一つになっているイメージ。ラッセルのこの和音の響きの美しさはどこからくるのでしょう?他のギタリストでは決して出せないラッセル最大の魅力はまさにそこにあると思います。

 前半最後に急遽演奏された『ハンガリー幻想曲』、これがまたよかった。きらびやかな星のようなイメージの『詩的ワルツ集』での和音の音色とは打って変わった、重厚で地面に沈み込むような和音で入り、最後テンポを上げて疾走していくところではもう観客をしっかりとリズムに引き込んで気持ちよく引っ張っていく。個人的には山手線・京浜東北線の遅れのせいで曲の合間合間に毎回大量の人がホール内に入ってくるような状況だったので、最初の曲目を聴き逃した多数の観客のために一曲弾いてくれたのかなと思っているのですが、何にせよこの『ハンガリー幻想曲』を聴けたのはよかった。実に素晴らしい演奏でした。やはりラッセルには19世紀の曲はよく似合います。

 そして後半、ダウランドの小品を4曲から始まり、ソーホの『5つのヴェネズエラ小品』に至るまで、しっかりとホールをその演奏で包んでくれました。ちょっとダウランド、4曲目の最後終わる時に弦がヴィィィィン・・・とか鳴ってしまって観客共々苦笑いなんていう場面もありましたが。アントニオ・ラウロの師であるソーホのこの小品集はジョン・ウィリアムズが『エル・ディアブロ・スエルト』に収録している曲です。リズム感を心地よく感じられるジョンの演奏もよいですが、情感溢れるラッセルの演奏もまたよかったです。

 アンコールは3曲。一曲目はシンプルな旋律でラッセルの美しい音色を堪能できる非常に素晴らしいスペイン風の小品だったのですが、これがなんと曲名がわからない(苦笑)。とてもいい曲だったので、誰か曲名教えてください。グラナドスかなー、もしかしたら『献辞』かなー、と思って聴いていたのですが、後で『献辞』を聴いてみたら違ってた・・・。後はマラッツの『スペイン・セレナータ』、そしてアンコール止めはバリオスの『最後のトレモロ』。2回生の頃自分でも弾いた大好きな曲ですが、ラッセルの『最後のトレモロ』はトレモロが歌う旋律が非常に美しく情緒にあふれていて、思わず目を閉じて聴きいってしまうほどに素晴らしかったです。終演後もしばらく続く感動の余韻は、久し振りのギターコンサートのせいもあり相当心地よかったとのことです。いやー、よいですね、やっぱり。