2025年8月23日土曜日

何も起きない夜

 母がモンゴルへ旅行に出かけた。叔父夫婦(母の実兄夫婦)が行く際に、母の兄嫁が一緒に行ってくれる女性がほしいということで母に白羽の矢が立ったのだ。母は初めてのモンゴルへ楽しみ半分恐れ半分で旅立って行ったが、この話のメインはこちらではない。母の旅行で一人家でお留守番をすることになった父の方だ。

父は昭和の男性である。いわゆる団塊の世代の最後の辺り。その世代の男性にありがちなように、父は家事全般を母に任せ、自分は仕事に生きてきた。その是非はここでは問わないが、結果として父の生活能力は低い。それでも掃除や洗濯はまだいいとして、問題は食事だ。料理が得意な母に任せきりだった父は自分では料理をしない。大学時代は一人暮らしだったわけだから多少はできたのかもしれないが、半世紀に及ぶ母との暮らしの中でその能力はすっかり消えてしまったようだ。そこで母が4泊5日の旅行に出るとなると、当然父の食事をどうするかという話になる。本人は大丈夫だよと言うが、正直大丈夫なわけがない。何しろ作れないだけならまだしも買えないのだ。スーパーやコンビニで出来合いの弁当や総菜を買ってくるという発想すらない。母は心配しつつ父に冷凍食品のチャーハンの作り方を仕込み、出発の昼にはカレーライスを作ってそれを夜まで食べるのだよと指示して旅立っていった。

今自分は仕事で実家に毎日通っているわけなので、当然昼は一緒に食べる。母の出発の日は母のカレーライスを一緒に食べて、イオンでサトウのごはんやレトルトの中華丼、インスタントみそ汁等を買ってきて父に渡し、その日は自宅に帰っていった。さて次の日の昼、自分は渡した中華丼とかを食べるかなと思っていたら、父は意気揚々と昨日のカレーを出してきた。夜食べなかったのかと聞くと夜はチャーハンを食べたという。朝は何を食べたのかはわからない。自分が渡したレトルト等も手を付けていない。これはいかんなと感じた。ヘタすれば母が帰るまでひたすら冷凍チャーハンを食べ続けそうだ。5日くらいそれでも死にはしないだろうがさすがに心配だ。ということで、急遽次の日は自分も仕事終わったらそのまま実家に泊まり、食事を用意することにした。自分も料理は苦手だがまだ買って揃えることはできる。

思えば父と2人で酒を飲むのも久しぶりだ。大学~社会人と自分が一人暮らしをしていた時はたまに自分のところに来て2人で飲むこともあったが、自分が家庭を持つと自然とその機会はなくなった。もしかしたら本当に2人だけでゆっくり飲んだのはもう20年近く前のことになるのかもしれない。

当時の父は今の自分よりまだ少し年上だろうか。父方の下戸の血を引きつつ、鍛錬である程度飲めるようになった父。その頃はまだ元気なもので、新潟から自分がいる都会に出てきた時は一緒に深夜までバーで飲むことも多かった。自分が敵わないなと思っていた圧倒的な知識量も健在で、酔うと好きな音楽についてや文化芸術について、社会について、周りの人たちについて、様々な知見を上機嫌に語ったものだ。圧倒的に自分だけがしゃべり続けるのは当時からちと玉に瑕ではあったけれど。今振り返ってみても、今の自分は当時の父ほどの知識や知見はあるのだろうかと思う。どうだろうな、知識は厳しそうだな。父はちと頭固いところがあるので、そこだけは自分がちっとはマシかもしれないけれど。

では今の父はどうか。少し残念であり寂しいところを語ると、最近の父は危ういほどに頭の働きが鈍くなっている。まず短期記憶(この場合は新しい最近についての記憶くらいの意味)の保持が非常に難しいようで、ほんの30分前、ヘタしたら数分前に話したこと聞いたことも覚えていられず、何度も同じことを言ったり聞いたりする。その状態で新しい知識など当然入るわけもないので、ここ数年の知識はアップデートされないまま昔の情報や価値観で語るので、ちょっと色々とちぐはぐなことが起こる。でも昔に覚えたことは忘れてないので、原理原則は変わらない経理会計の仕事については相変わらず問題なく進められる。

この状態だと日常生活ならまだいいが、仕事となるとなかなか大変で、例えば今年の2月は久しぶりにかなりの大雪が降ったのに「前の冬は全然雪降らなかったからね」というレベルのことを、この程度ならまだ雑談だからいいけれど、もっと仕事的な話で言い出したりする。何度も同じことを繰り返しやろうとしたり聞いてきたり、お客さんから頼まれたことをすっかり忘れてたりする。でも仕事人間だったわけだから仕事はしたいので、大部分の仕事を自分に譲った今でも父は割とグイグイ前に出てくる。実は困ることも多くなってきたけれど、仕事を全部取り上げてもそれはそれで一気によくない方向に進んでしまいそうで怖くてそれもできずにいる。

歳を取るとはかくも残酷なことなのかと最近よく思う。かつてどうあがいても敵わないと感じていた父が、今は少しずつと言うのもちょっとはばかられるほど足早に、自分がフォローしたり困ったりする機会がどんどん増えていく。今回の食事の件もそうだ。もっと若い頃の父なら、いくらなんでもここまで心配はしなかっただろう。

仕事が終わって、自分が買い出しに行って刺身や総菜を買って食卓に並べた。冷凍チャーハンよりはマシな食事に、父の好きなエビスビールを用意して、お互いに注ぎながら食事をする。TVのニュースにコメントを付けたり、クラシックの話を上機嫌に語る様子は昔のままだ。その昔のままというのが安心するような少し寂しいような気持ちで、実はもう何度か聞いている話を相槌打ちながら聞く。仕事柄たくさんの年寄りのお客さんと接するが、多くの人が年を取ると何パターンかの同じ話ばかりをするようになる。今では父も明らかにそのような話し方をする。なんとなしに、父はもう未来には進まないのだなと思った。もちろん、もう父にその必要はないのだ。これまで頑張って生きてきた。ここからは頑張って未来に進まずとも、心地よく今を過ごすことができればいいのだ。それでも、自分としては一緒に未来へと進まなくなった、進めなくなった父をやはり寂しく思う。世代は変わる。今は自分がかつての父のように一生懸命未来に向かって進まなければいけない時がきている。それだけのわかりきったことではあるのだけど。

20年ぶりくらいの父と2人の夜。もうこうして何度過ごせるかわからないなと思っていたから、父からか自分からか、何か特別な話でもするのかもしれないなと思っていた。でもそんなことはなく、父はこれまでのように何も変わらず上機嫌に自分の話をする。おそらく父にとってみればこれまでも何度もあった時間の延長に過ぎないのだろう。最後とは知らぬ最後が過ぎてゆく、と子育てについて歌ったのは俵万智だったか。これは親が子を見る短歌だけれど、子が親を見る視点でも同じなのだ。いつも通り、普段通りが過ぎていく。後から見た時、あれが最後だったねと振り返る。結局、そういうものなのだろう。

その夜も何も特別なことは起きなかった。いつも通りの様子でいつも通りの話。ただ昔と違い、22時になったところで「明日も仕事だしね」と自分の方から切り上げた。元々酒に強くない父、最近普段は20時には寝ているという父に、これ以上無理をさせてもいけないかなという思いで。天辺を超えてもバーで飲んでいた、そんな飲み方の最後は果たしていつだったのか。きっとその最後の夜も、何も起きないいつも通りの夜だったことだろう。最後とは知らぬ最後を、これからきっと、親としても子としても積み上げていく。振り返った時に、やっとわかる最後を。

2021年10月23日土曜日

2020年2月4日火曜日

無題

読むことだけが頼りです
書くことに
封をしてしまった今この時は

2020年1月8日水曜日

note、はじめました

noteを始めてみました。前々から少し興味はあったんだけど、長文を書く場所はこのブログがあるし、住み分けはどうするかが難しいよなー、と思ってずっと「少し興味はある」というレベルでとどまっていたんですが、新年ですし細かいことを考えるよりとりあえず使ってみようかと、まずは始めてみました。

記念すべき1つめの投稿はこちら。

テッド・チャン『息吹』- 運命への向き合い方

クリエイターページへは以下のQRからも飛べます。



こちらのブログも閉鎖する予定はありませんので、引き続き住み分けをどうするか考えつつ更新していきたいと思います。

2019年11月29日金曜日

昼食とチーム内コミュニケーション

大学時代から、昼飯は1人で食べるのが当たり前だった。授業、バイト、部活でなかなか時間の切り貼りが忙しく、人と時間を合わせるのがめんどくさかったのもあり、誰かと一緒にいることで気を遣うのが煩わしかった思いもあり、いつしか隙間時間で1人で昼食を食べることが多くなっていた。

社会人になってもその習慣は変わらず、最初の2~3年ほどは先輩や同期が誘ってくれるので一緒に昼食に行ってはいたが、何年か経って自分が1人で仕事をこなす機会が多くなり、さらには自分自身がリーダーとして案件を持つようになってからはまた仕事の合間の都合のいい時間に、誰に声をかけるでもなく1人でフラッと昼食に行くのがいつものことになっていた。

SE時代、後半は案件ごとに何人かのチームを組んで仕事に当たることが多かった。営業等は除いて単純に開発のチームで見ると、大体は自分リーダーで3人~5人くらい。正社員だけで構成されることはほとんどなくて、いつも半分程度かそれ以上は派遣さんをお願いすることになる。ある時、自分のチームとしては割と大きめの案件を振られて、10人近い所帯で開発チームを組んで担当することになり、半分以上は派遣さんをお願いして人員をそろえることになった。その時も自分はいつものように、昼食は1人でいい時にフラッと出かけるスタイル。もちろんそれ以外の仕事時はチームメンバーと必要に応じたコミュニケーションはしていたつもりだし、雑談や息抜きも自分は否定することはほとんどなかった(これはいつも大体真面目なメンバーに恵まれたおかげもある)ので、時には休憩がてら仕事以外の話もしながら、チームの輪はうまく保てているとなんとなく思っていた。そして案件自体はいつものように多少のすったもんだはありつつも何とか無事に納品・検収を終え、じゃあちょっと打ち上げでもやろうかとみんなで飲みに行くことになった。その時、飲み会の最中は案件の苦労話やら、何故だか覚えてるのは10歳年上の彼女はアリかナシかみたいな話で盛り上がったりしたのだけど(当時自分は20代後半)、最後の方だんだんぶっちゃけ話になってきた頃合いにある派遣さんからこんなことを言われた。

「あゆむさんは正社員と派遣社員の区別は特にしていないって言ってましたけど、逆に自分は物凄くその違いを感じていたんですよ」

またそれが普段から明るくて豪放なタイプの人から言われたのでとても意外性が強くて、飲み会後半のもう酔いも回ってきた頃合いにいきなり目が覚めるほどの衝撃を受けたのを覚えている。一体何がその違いを感じさせていたのか。自分は仕事を割り振る時はもう完全に社員か派遣かは考えてなくて、人を見て適材適所で割り振りしていたつもりだし、誓って「社員は派遣より上だ」と思ってはいなかったし、チーム内のコミュニケーション的にも社員と派遣を分けた連絡体制を取るみたいなことはしていなかった(リーダーによってはそういう社員と派遣を連絡体制上から分ける人もいる)。で、何が悪かったのかなと考えた時に思い当たったのが、仕事ではなくむしろ雑談等の業務外のコミュニケーションだった。業務上の連絡は自分は社員と派遣は一切分けていなかったし、「これは派遣は知らなくていい」というような情報分断はむしろ作らないようにしていたのだけど、普段の業務外の雑談は、特に意識はしていなかったのだけど、意識をしていなかった故にというべきか、ずっと一緒にやってる社員との会話が確かに明らかに多いという点に思い当たった。そうすると自分が社員のチームメンバーと楽し気に話している間、派遣さんは黙々とPCに向かうことになる。もちろん逆のシチュエーションもあるわけだけど、頻度的にはやはり社員同士で盛り上がってるケースが多かった。しかもリーダーの自分は1人でフラッと昼食に行ってしまうせいか、派遣さん同士も特に一緒に行くこともなく1人ずつ昼食に出かける。こうなるとチーム内で楽しくコミュニケーションという機会は、特に派遣さんはかなり少なかったんだなと反省することになった。

次の案件から、1人で昼食へはできるだけ行かないようにした。社員は社員で仲のいい相手と一緒に行くので、派遣さんを誘うようにして。気楽な1人の時間はなくなったし、昼食時間にいつもしていた読書の時間もなくなった。自分にとって他の人と食事をすることは基本的には気を遣うことなのでリラックスできる時間でもなくなった。けれどできるだけ派遣さんにも疎外感を感じてほしくなかったし、またそれがお互いのコミュニケーションから、ひいては信頼にもつながって仕事にいいフィードバックがあるだろうと、その点は気をつけるようになった。実際にどの程度意図した効果があったかはわからない。もしかしたら自己満足だったかもしれない。自分が派遣さんを誘って昼食に行ったからといって、相手が内心それを快く思っていたかどうかはわからないわけだから。

リーダーシップと協調性というキーワードを目にして、思い出したのがこのエピソードだった。自分はうまくリーダーシップと協調性を実現できていたのだろうか?今は、どうだろうか???

まったくの余談。当時自分が派遣さんの採用可否を決める面談をする際に、最後必ずしていた質問がある。それが「読書は好きですか?最近読んだ本は?」というもの。技術書でも小説でもなんでもいいけれど、文章を読む力はプログラムを読む力だという思いからいつも聞いていた。本を読む習慣がある人なら自分の長いメールも読んでくれるだろうし。途中からは派遣会社の仲介担当さんもわかってきて、自分が担当だとわかるともう最初からちゃんとその質問に答えられる人を紹介してくれるようになった。こんなエピソードなんてもう他に書き残しておく機会もないだろうから、派遣さんというキーワードが出てきた今回に余談として…。

2019年3月15日金曜日

春の虚空

一人で店番をする。春の気まぐれな天気の隙間に出てきた晴れ。訪れるお客もない部屋を、エアコンの稼働音のザラっとしたホワイトノイズが包み込む。薄膜が張ったような空気の中で、何かを考え続けているような、考えるふりでただ時間が過ぎるのを待っているような。

視線を落とせ。視線を落とせ。向き合うべきものはもうわかっている。

視線を落とせ。視線を落とせ。向き合うべきものはもうわかっている。

2017年8月20日日曜日

軍艦島を訪れて

ちょうど一週間前、8月13日のことになりますが、お盆休みを利用して家族で軍艦島に行ってきました。以前から多少なりとも興味はあったもののなかなか行く機会がなかった軍艦島。今回は妻が行きたいと言って軍艦島ツアー付きの宿泊プランがある宿を見つけてきたこともあり、意を決して長崎まで行ってみることにしました。長崎自体実に11年ぶり、軍艦島はもちろん初めての旅となります。そもそも軍艦島の上陸禁止が解かれたのが2009年、世界文化遺産になることが決まったのが2015年なわけですから、11年前に長崎に来た時には軍艦島ツアーなんてものはそもそもなかったはずです。当時はただの無人島であり、語弊はあるかもしれませんがただの廃墟でしかなかったわけです。多分当時の自分は軍艦島の存在自体は知識の片隅にはあったでしょうが、観光できる場所としては認識していなかったどころか、何があった島なのかもぼんやりとしかわかっていなかったのではないかと思います。それが今は数社がツアーを催行する観光名所になっている。10年ひと昔とは言いますが、なかなか状況は変わるものです。

 そもそも軍艦島は海底炭鉱の島として、明治・大正・昭和と日本のエネルギーを支える最先端の島として時代の先端を走っていました。日本初となる高層鉄筋コンクリートの建造物や、当時世界一の長さを誇った海底水道管など、文字通り最先端の暮らしがここに結集していたわけです。東京の9倍もの人口密度を持ち、その最先端の町や生活スタイルは当時「この島が日本の将来の姿だ」と言われたほど尖鋭的なものでした。それが国の石炭から石油へのエネルギー転換の方針を受け1970年に閉山・島の廃棄が決まり、栄華は一気に暗転。1974年には炭鉱が閉鎖され、無人島となります。国の方針ひとつで最先端から一気に凋落したこの島は、人が作りだし、人によって廃墟となった、数奇で悲劇的な島と言っていいと思います。

 自分が軍艦島に行った日は、夏らしくとても暑い、最高気温35℃とかある熱すぎるくらいの日でした。その分空も爽やかに青が広がり、景観としてはこれ以上ないくらいの上陸日和。暑いのはしんどいとはいえ、景色がきれいに見えるという意味ではとても運がいい日だったと思います。長崎港から軍艦島へは、船に乗っておよそ40分くらい。客員は50人程度しか入らない、基本的に航行中は全員着席となる決して大きくはないその船で、心地よい潮風に吹かれながら軍艦島に向かって行きました。いよいよ島が大きく視界に入ってくる頃になると、船は一旦海上で停泊して船上デッキで海から軍艦島を眺める時間を作ってくれます。その時撮ったのが冒頭に上げた写真です。一目見た感想は、非常に月並みながら「あ~、これは確かに軍艦だわ…」というものでした。もうね、見ていただければおわかりいただけるかと思いますがシルエットがホント軍艦。うん、こりゃ軍艦だわ、間違いないということで、それにしてもカッコいい島だよなぁとこの時点では完全にお気楽観光気分で船の上から何度もiPhoneのカメラのシャッターを切ります。ご覧の通りのスカッとした夏空が島のシルエットをさらに引き立ててくれます。これは上陸後の景色も素晴らしいんだろうなと、期待がふくらみつつ一旦席に戻り、船は上陸に向けて再び動き出します。

上陸後自分たちがまず通されたのは第2見学広場でした。軍艦島は上陸して見学できるエリアが完全に決められていて、個別に自由行動はできません。ツアーでの団体行動での移動になります。それも複数のツアーが同時に上陸してきますので、順番にローテーションするような形で見学エリアを回っていく形になります。この第2見学エリアから見えるメインの建造物はこの写真。この赤レンガ作りのちょっとお洒落な建物は元々倉庫だったとのことで、この隣には炭坑作業員の共同浴場があったとのことです。ご覧のように、今では建物の大半は崩れ落ちてしまい、パネル1枚の撮影用セットのように表面だけが辛うじて立っているような状態になっています。閉山から44年。もうこれを見るだけで、無人となった島で時が創り上げた廃墟の物悲しさが伝わってきます。とりあえずツアー客全員の集合を待つ間、自分はやはり景色を眺めたりカメラで写真を撮ったりしてこの風景を満喫していました。

 そこで、ガイドの方の話が始まります。このガイドの方は軍艦島を世界遺産にする会の会長さんで、ご自身がかつて軍艦島に住んでおられたとのこと。この方の語りは、ただ単に軍艦島を廃墟ツーリズムの享楽の中に組み込むだけでない、元島民としての思いが込められたものでした。あそこが自分が住んでいたマンションです、あの階段から毎日、父は炭鉱に向かって降りていったのです、と自身の生活の視点でお話されます。そして、この最初の見学広場でこう仰いました。

みなさんはここを廃墟だと思っている。廃墟を見に来たと思っている。でも、44年前まではここで暮らしていた人達がいたんです。私もそうです。私にとってはここは廃墟ではない。ふるさとなんです。みなさんはここに廃墟を見に来たと思って、この景色にカメラを向ける。いいんです。でもそのカメラを向ける時、ここでかつて暮らしていた人達がいたこと、ここを今もふるさとと呼ぶ人達がいることに、少し思いを馳せてみてください。

言葉は正確ではないですが、大体このようなことを話しておられました。この時まで自分も、正直軍艦島には割と気軽に来ていたというか、ただ単に廃墟のカッコいい景色を眺めに行こうくらいの気持ちでいました。でも確かに、廃墟ということはそうなる前にここでは確かな暮らしがあったわけです。それも一時期は時代の最先端を行っていた、まさに栄華と言っていい活気のある暮らしが。それが今目の前では時代の残滓として、廃墟としての姿を晒している。そしてその転換は、まだ当時住んでいた人がしっかり生きているほどの、近い時間軸で起こったことなのです。そう考えると、まさに時代に翻弄されたとも言えるこの島の景色が、ただ廃墟であるという以上に悲哀を帯びて見えてきます。そうか、まだ半世紀も経たない程度の昔には、まだこの建物では一生懸命暮らしている人達がいたんだな、と。

 また、そのガイドの方はこうも話していました。

ちょうどお盆です。みなさんは帰省でふるさとに帰ってきたのかもしれません。でも私は帰れてないんです、この島に。もう44年も。2015年にようやく炭鉱が世界文化遺産に指定されました。これでようやくふるさとを守れたなという気持ちです。でもまだ、指定されたのは炭鉱だけで、今見えている居住区の辺りは指定されたわけではありません。でも本当に人々が暮らしていて、本当の価値があるのはそちらであると思っています。

 それは、ここで暮らしていた人達がいたということを忘れないでほしいという思いがある言葉でした。そして、それを踏まえた上で今のこの風景を見てほしいという思いを感じる言葉でした。最後の案内の言葉は、次のように〆られます。

今から、すべての音を少しの間止めます。どんな音が聞こえるでしょうか。ちょっと耳をすませてください

(すべての音が止められ、訪れる静寂の中に、波の音、風の音、鳥の鳴き声が穏やかに聞こえてくる)

…せっかく無人島に来たんです。無人島の音も、聞いていってください。

 これがガイドの最後でした。お決まりのお礼やら何やら一切なし。それがまた逆に鮮烈で、無人島となった軍艦島のイメージが頭に焼き付けられました。この一風変わったガイドに感銘を受けたのか、それとも単純に風景に何か響くものがあったのか、上の子は帰りの船の中で「今年の夏休みの自由研究は軍艦島にする」と言い出しました。そして実際に今まとめています。何か感じてくれるものがあったのなら、親としても連れていった甲斐があるというものです。

 自分は自分で、帰ってきて今こうして書きながら軍艦島の印象を整理していて、そういえば東浩紀が廃墟ツーリズムがどうのとか言ってたなぁとふと思い出しました。あれは確か福島原発の絡みだったと思いますが、その廃墟ツーリズムという提唱の中で何を言ってるのか、ちょっと気になるなと思ってみたりしました。確かこの『弱いつながり 検索ワードを探す旅』っていう本だったはず。今度読んでみたいと思います。合わせてジョン・アーリの『場所を消費する』も、改めて読み直してみたいなとか。今の軍艦島は、ある意味正しくジョン・アーリ的に「場所を消費」されているわけです。日常の決まりきった経験から自らを切り離すような場に向けられる観光のまなざしと、それに対応するためのサービス。それによって軍艦島がどのように影響されていくのか。もしかしたら次第に、かつてそこで暮らす人がいてそれぞれの人の物語が存在したことも、その観光のまなざしの中で消費されてしまうのではないか。そんなことも今考えてみたりします。消費と言ってしまうと、少し悲しい気もしますが…。

 そんな感じで、好天にも恵まれた軍艦島ツアー、色々と感じるところもあり非常にいい経験をさせてもらいました。単純に景観を楽しむという意味でももちろん、そこからかつてあった暮らしに想いを馳せたり、実際に住んでいた人の思いを感じることもできたり、思っていた以上に濃い時間を過ごすことができました。今体験してきたことを色々と言葉で整理しようとしている最中ではありますが、いつかまた、今回の経験を一旦飲み込めた頃に、軍艦島にはもう一度行ってみたいなと思います。

2016年3月9日水曜日

美女と野獣 2nd修正

 先日アップした美女と野獣のスコアですが、案の定というか2ndのみ少々単純な間違いがありましたので譜面修正いたしました。1st、3rdに変更はありません。

総譜
パート譜(2nd)

 変更点は以下の通り。

・19小節目:レのナチュラルをオクターブ高く変更
・32小節目:4拍目のシの音が抜けていたので追加
・42小節目:最後のミをオクターブ高く変更
・67小節目:最初のミの音を削除
・67~70小節目:オクターブ高く変更
・74小節目:オクターブ高く変更

 また、本番Hまで弾いて終わりにしようというお話になるみたいですが、その場合最後の75小節目、3rdは5弦解放のラの音で終わってください。6弦5フレットでもいいです(同じ)。

 直前の修正で申し訳ないですがよろしくです。

2016年2月28日日曜日

美女と野獣

 シノさんの結婚式用『美女と野獣』の譜面、完成いたしました。合奏参加者の皆さまはどうぞご確認ください。以下のファイルに総譜、パート譜、参考の音源が入っています。

譜面・音源データ

 元の譜面は金管五重奏で、そのままのキーだとフラットだらけでギターだと弾きづらいことこの上ないので半音下げて調整しました。E→G→Aと2回転調するので、譜読みの際は気を付けてください。1stは重音の箇所がありますが、そのまま弾いてもいいですし2人で上と下分けて弾いてもいいと思います。そこはおまかせします。

 で、そう極端に難しくはないですが言うほど簡単でもありません。不可解な変拍子が出てきたりするので、ちょっと合わせづらいところがあるかもです。練習機会がほとんど取れないか、少なくとも自分はぶっつけ本番になるので、丁寧に音さらっておいた方がいいと思います。

 一応以下に総譜のリンクも置いておきます。スマホからならこちらから譜面を確認できると思います。

総譜

 ちょっと急いでやったのでもしあやしげなところや不明なところあればご指摘を。

2016年2月16日火曜日

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

 今更ながら、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に挑戦してみました。古典の名作中の名作と言われてはいるものの、何か敷居が高い気がしてずっとこの作品を、ドストエフスキーを、遠ざけてここまできていたのです。何故今読む気になったかというと、正月にたまたま目についてkindle版を買って読んでいた『ゲンロン1 現代日本の批評』にこの作品の新訳を出した亀山郁夫の対談が収録されており、テロと文学、そしてこの『カラマーゾフの兄弟』との関係など語られていて興味を持ったのがきっかけです。探してみるとKindle版もあるようだし、それならまぁ読んでみるかということで早速注文してみました。購入したのもはもちろん亀山郁夫訳です。

 で、読み始めたのはいいけど正直第1巻の序盤はなかなか読書が進まない。フョードル、アリョーシャ、ドミートリー、イワンといったカラマーゾフ家の人物の生い立ちやら何やらが描かれるのだけど、これを読んでいくのがなかなかの苦行。この生い立ちを読むことがこの後の小説の展開にどの程度関わってくるのかまったく読めないまま、あれが当時のロシア風なのかそれともドストエフスキーの芸風なのか、とにかく冗長な長台詞をひたすら読まされる感じ。多分『指輪物語』を読み切ってなかったらこの段階で挫折してたんじゃないでしょうか。ずっと心の中で「『指輪物語』に至っては1巻まるまる旅立ちの準備で全然面白くなかったじゃないか。でもその後は一気に面白くなった。この作品もそうに違いない。きっとそうに違いない」と何度も繰り返して立ち向かっていました。ですがこの『カラマーゾフの兄弟』は『指輪物語』ほど凶悪ではなく、ちゃんと第1巻の3分の2を読み進める頃にはもう面白くなってきます。そこからは読書ペースも一気に上がっていきました。

 見てみると第1巻を注文したのが1月5日。第2巻の注文が1月24日。第3巻が1月30日。第4巻が2月1日。そして最終巻が2月4日注文で、読み終わったのが2月10日。第1巻を読むのに時間がかかった割には、その続きは一気に読み進めているのが顕著にわかります。また第3巻~第5巻の本編が終わる頃合いまでは幸か不幸かインフルエンザで寝込んでいたので、尚更読書ペースが上がりました。で、第5巻は本編はすぐ読み終わったものの、その後の亀山氏の解説はのんびり読んでたので少し時間がかかったと。第2巻以降はもうほとんど一気です。こんなに面白いとは思わなかった。この巨大さにしてこの緻密さ、生々しい人間の姿、普遍的な哲学、凄まじい。

 カラマーゾフの登場人物達は、時に高潔で、時に愚かで、一貫してないことも多く、でもそれゆえに「ああ、こういう人っているなぁ」と思わせるのです。今お付き合いさせてもらっている農家の方、特にビジネスという「場」に必ずしもはまっていない古い世代の彼らは、時に人間を剥き出しに振る舞うこともあるので、それこそ突然この作品の登場人物のような長舌な語りを始める方もいたり、感情のままに周りを振り回すような場合も時にはあったりします。新潟に戻ってきたばかりの頃、社会人としてはビジネスシーンという様式美の世界での人付き合いが主だった自分はその生々しさに戸惑い、これが農家独特の文化なのかと軽いショックを受けたものでした。でも、それは別に農家に限ったことでなく、ビジネスシーンという様式美をなくしてしまった時に見えてくる、生の人間なんだなということに次第に気付いてきました。

 この小説に出てくる人物たちは、そういった生の人間が凄く剥き出しの形で描かれるのです。フョードルの恐ろしいほどの道化っぷり。自分の欲求に、愛するものに忠実で、他人からは理解しにくいこだわりや誇りを持つドミートリー。無神論者で自説を滔々と語り、非常に理知的・理性的であるがゆえに自分の影に隠れた欲望に苛まれることになるイワン。卑屈な下男かと思いきや、終盤で思いの外狡猾で理知的に狂言回しの役を演じるスメルジャコフ。アリョーシャは、この小説では案外個性が薄い博愛の人ですが、ドストエフスキーの死によって叶わなくなったこの小説の続編ではもっと強烈な個性を見せるはずだったんでしょう、きっと。個性的な女性陣や検事・弁護士に至るまで、それぞれどぎついくらいの個性を、人間臭さをもった登場人物たち。どこかのレビューで「大勢の人間ドラマの大河」という言い回しを見ましたが、まさにそのような感じです。親殺しというテーマと、それに続く犯人探しという大きなストーリーの中に、登場人物それぞれの生々しい人間ドラマがぎちぎちに詰め込まれ、それが大河となりうねっているいる。そして言い回しこそ多少時代がかってはいるとはいえ、そこで描かれる人間の振る舞いや哲学的・神学的な問いかけ、巨大な物語のうねりはまったく古くさくないのです。シェイクスピアを読んだ時にも感じる、時代を超えた普遍的な哲学であり、人間の姿。これは確かに古典として残る凄みのある小説だと感嘆しました。

 第2部でイワンが語る大審問官。宗教は果たして人を救うのか?天上のパンか地上のパンか?という神学的・哲学的な問いの深さに重さ。第3部でいよいよフョードル殺害が起きる時点におけるドミートリーの怒りや失望、混乱の生々しさ。そしてそこから乱痴気騒ぎの中でそれらが急速に希望や歓喜へと変わっていく過程。そして次の瞬間にはそこから突き落とされるジェットコースターのような展開。どれ一つ取っても非凡な問いであり、描写であり、迫力なのです。

 特に圧巻だった第4部。イワンの内面の葛藤とスメルジャコフとのやり取り、それにより軋み、崩れていく精神の描写が凄み。崩れていく理性の描写としては芥川龍之介の『歯車』も読みながらゾクゾクした覚えがありますが、こちらもまた読むうちに崩れゆく理性の渦に巻き込まれ、次第に目眩がしてくる、まるで文章の中に吸い込まれていくかのような迫力。この辺りはもう文字から目をそらすこともできませんでした。そしてその崩壊した心の中にのみ残された真実はついに裁判では照らし出されることはなく、事実から「推察される真実」は見方によって様々に色を変え、心象を変え、裁判は進んでいきます。そう、やはり芥川龍之介の『藪の中』のように、真実は断片の切り方によっていくらでも姿を変えるのです。そして結局、真実は最後まですべての姿を見せてはくれないまま裁判の幕が閉じる、その無情さを感じする隙すらないようなあっけなさ。

 正直この作品がこんなに面白いとは、こんなに力があるとは、思ってもみませんでした。エピローグで感じるまっ白なカタルシスは、そこまでの様々な登場人物の、長く生々しいドラマを、登場人物は登場人物として、そして読者は読者としても、乗り越えてきたがゆえ。この人類の原罪に挑むかのような壮大なテーマに比して意外なほど爽やかで美しいラストは、読後に清々しい達成感を残してくれました。

 親殺しという神話からつらなるテーマを中心に、様々な人間模様や哲学、事実が真実を表すとは限らないというテーゼ、そして唐突で不条理とも思える結末。長さなど気にならず、最後まで一気に読ませてくれます。語る人物それぞれに、生々しい「人間」を感じるのです。そう、この言葉を何度も使いました。「生々しい」。この『カラマーゾフの兄弟』に出てくる登場人物たちは、実に生々しいのです。最近の物語の、ちょっと近くにはいなさそうな「キャラクター」ではなく、明日も会いそうな、今も隣にいそうな、等身大でカッコよくも悪くもある、欠点だって普通に持った、ありふれた人間の人生が紡がれて大河となっている小説なのです。だから、この小説のあらすじに意味はないのです。単純に数行で書き尽せるあらすじにこの小説の神髄はなく、ストーリーの流れから見るとむしろ寄り道にも見える一人ひとりの人間ドラマが、滔々とした哲学や美学の語りが、そこに描き出される思いや迷いが、普遍的な広がりをもって流れていくのです。もっと早く読んでおけばと思いつつ、でもこの歳だからこそわかる部分も多いのかもなとも思うのは負け惜しみでしょうか。これはいつかまた読み返してみたい小説です。その時はまた、別の訳で。

 とりあえず次は、『罪と罰』でも読んでみようかな?

2015年1月22日木曜日

よくない想像

 これはよくない想像だから、こっそり書きます。ISISが日本人2人を人質に取り、身代金2億ドルを要求している件。

 ネットでもリアルでも色々言われてはいるけれど、細かな陰謀論とか何とかはすべて脇に置いておいて、自分が今一番心配なのはこれを機にナショナリズム、全体主義的な機運が異常に高まったりしないかなということなのです。一番心配なのは人質の方の命ではないのかという意見にはごめんなさい。だからこっそり書くのです。

 人質が解放された場合でも最悪の結果になった場合でも、これを機に日本でもアメリカの「テロとの戦い」に巻き込まれたという認識はある程度出てくることと思う。それでも無事に人質が解放されさえすれば、せいぜい「今後こういったテロとの戦いに備えるためにも集団的自衛権の法的な保証が必要だ」という論調が強まるくらいだろう。もしかしたらこうした国民が直接巻き込まれた有事の際に自衛隊を海外に派遣させるための法整備を、なんて話も出てくるかもしれない。それはそれで慎重に考えるべきことであるけれど、そこまでならまだ怖くない。いや、怖いは怖いけど、まだ最悪の結果には至らないと思う。

 でも仮に最悪の結果になったら?その先の事態として、仮に日本国内でテロが起こったりしたら?その場合考えられる一番ひどい状況は、これまで日本のお家芸であった自己責任論やその他様々な他人様言論も言える雰囲気でなくなってくること。「亡くなった人を悪く言うなんて許せない」「テロを否定しないとは非国民だ」みたいな変な同調圧力が高まってきやしないかなと、それを密かに心配しているのです。そのようになってくると、まさに戦時中の日本のようになってしまう。こうなると一気に改憲だの国防軍だの、そういう話になっていくんじゃないかと、それを心配しているのです。

 Twitterで平野啓一郎氏が以下のようにつぶやいていました

 スポーツなどで国際的に活躍すると、「同じ日本人」として思いっきり共感するのに、紛争地帯で拘束されたりすると、いきなり「自己責任」と言って突き放してしまう冷たさは何なのか。

 2004年の香田さん処刑事件の際にも出ていた自己責任論。確かに冷たいようにも思えるけど、これはある種の自己防御システム、免疫のようなものなのかもしれないなと今思うのです。この「失敗した日本人」に対する冷たさは、ある意味その失敗にさらに追加のベットをしないような安全装置的な働きがあるのではないかと感じています。戦時中、少なくとも公の場ではまさに思想も言論も一つの方向に統制された状態で、無惨な戦争に身を投じたこの日本。その当時の極端な全体主義への反動から、今逆にそこに向かわないために敢えて冷たく「自己責任」と切り捨てることで距離を置いているのではないかと。今日たまたまお話をしたお年寄りの方(戦争体験者)の方もことさらに(特にビジネスで向かった人の方)を「自分で勝手に行って捕まったんだからなぁ…」と自己責任論を支持していた辺り、やはり全体主義への反動という一面はあるのでないかと思うのです。

 だから怖いのは「自己責任」とさえ言えない空気が生まれることなのです。仮に人質の2人に最悪の事態が起きた時、彼らに対して「自己責任だから仕方ない」と言える空気が残っているかどうか。香田さんの時は、良くも悪くもその余裕はまだありました。けど、今はどうだろう?ネットの発達で不寛容さが目立つようになった昨今。自己責任論の冷たさと裏腹に、日本には一度同調圧力が高まってくるとどうにもそこから抜けだせない怖さもあります。この自己責任論の冷たさが、セーフティネットにならない空気が生まれないといいと思うのですが…。

 とはいえまずは何よりも、人質のお2人が無事に帰国できることを祈っております。

2015年1月19日月曜日

インフルエンザ・パンデミック

 先週から、我が家でインフルエンザが猛威をふるっています。先週の日曜11日の夜に上の子が発熱して以来、妻も下の子も次々とインフルにかかっていきました。簡単に時系列をまとめると以下のような感じです。

11日(日) 上の子発熱。
13日(火) 上の子病院へ。インフル確定。
14日(水) 妻発熱、インフル確定。下の子微熱。
17日(土) 上の子治癒認定。下の子インフル確定。
19日(月) 上の子登校。下の子微熱。

 途中から妻もやられてしまったので、我が家は自分以外見事に全滅。15日から17日までは自分以外誰ひとり外出することができない状況にまで追い込まれました。おかげで先週は自分もまともに仕事ができたのは一日だけというありさま。ひどいものです。妻子はちゃんとインフルエンザの予防接種を受けてはいたのですが、今年流行っている香港A型は予防接種の効果が薄いタイプらしいですね。逆に予防接種を受けていない自分には(今のところ)うつってないんだからわからんものです。まぁ多分、自分はこの香港A型には過去にかかっていて免疫を持っているのでしょう。ひたすら病弱な子供時代でしたが、たくさん病気しておくのもたまにはいいこともあるものです(?)。

 今回ちとしくじったなと 思ってるのが下の子への対処。実は下の子、先週水曜からなんか37度台の微熱があったのですが、それ以上上がることもなかったからインフルではないかなと油断していたのです。でも上の子が完治の診断書をもらいに行く土曜になってもまだ微熱が続いているので一緒に診察してもらったら、見事にインフルA型判定。どうやら予防接種を受けている場合には、インフルエンザでもときたまこのように高熱にならずに微熱がダラダラ続くパターンがあるようなのです。もう発熱後大分日数が経っているのでタミフルももう効果的な時期ではなく…。ちょっと失敗しました。高熱にならずとも、周りにインフルが蔓延している際は微熱でもインフルを疑うべし。そうでないと結局治りが遅くなってしまいます。今朝も下の子は37度台の微熱。はたして完治はいつの日か。見てる分には元気なんですけどね…。

 そして今日から通学解禁の上の子、朝は学校に行きたくないと泣きじゃくっておりました。ちょうど三連休の途中から発熱し、期せずして九連休となっていた上の子。まるで冬休みが二回あったようなものです。そりゃ学校行きたくなくもなりますわな…。「おとうさんとおうちがいい!」と必死で言ってくれるのは嬉しいのですが、なかなかそうもいかないのです。ちょっと後ろ髪引かれる思いで泣きじゃくる上の子を送り出したとのことです。

2015年1月9日金曜日

仏『シャルリー・エブド』紙襲撃に思う表現の自由とその限界、リスク、責任

 新年早々痛ましく、また考えることの多い事件が起きた。フランスの風刺漫画が売りの週刊新聞、『シャルリー・エブド』編集部がイスラームの3人組に襲撃され、警官含め12人が射殺された事件。以前から度々イスラームを過激に風刺する漫画を載せていた同紙に対し、侮辱行為だと憤慨した犯人が計画的に襲撃を行ったという。現時点ではまだ確定情報ではないが、イスラームの過激派組織とのつながりも指摘されており、一連の欧米とイスラーム過激派組織の闘いの文脈の中で起きた、完全な民間人が被害者となった悲痛な事件。

 まずは犠牲者となった方々に哀悼の意を表し、いかなる理由があれ文字通り致命的な暴力という手段に打って出る行為自体に同意することはまったくないということを明言した上で、それでもこの事件については色々と思うところがやはりある。ここに至るまでの社会背景は、それこそ歴史的なものから911以後の欧米とイスラームの対立、フランス国内におけるイスラーム系移民の扱い等々複雑なものがたくさん絡んでいるが、ここでは話を単純化して、ある一点に絞って考えてみたい。

 この事件で自分が考えるのは、「表現の自由はどこまで許されるのか。許されない領域があるとしたら、その線引きはどこになるのか」ということ。今回は表現者がムハンマドを笑い物にするような漫画を風刺として送り出し、それを受け手がイスラームの聖人に対する侮辱と取ったことが直接の原因となった。犠牲者が出た非常に痛ましい事件ではあるが、これを「表現の自由に対する暴挙」と考えるのか、それとも「行き過ぎた表現の自由」と考えるのか。

 奇しくも2年前、今回襲撃を受けたのと同じシャルリー・エブド紙がやはりムハンマドの風刺画を載せてイスラームの反感を買った時、当時のフランスのエロー首相は「表現の自由は支持するが、限界はある」と指摘したという。その限界はどこなのか。

 誰しも自分が大切に思っているものを侮辱されたら、され続けたら怒る。それはわかる。だから表現の自由といってもそれは対象を明らかに侮蔑するようなものであってはならないという指摘も一理あるとは思う。けれど、果たして世界中の誰も不快にならないような表現など果たして可能であろうか?何よりも、表現が不快であるかどうかは送り手の問題でもあると同時に受け手の問題でもある。仮に送り手に侮蔑の意図がなかったとしても、受け手がそう取れば不快な表現となってしまう。メディアが発達し、価値観が多様化した現在、すべての受け手に不快を感じさせないようにと気を使い始めたら、最終的には沈黙するしかなくなる。

 では表現の自由の名の下に、我々は何を発信してもいいのだろうか?誰を、何を侮蔑しても、傷つけても?最近話題のヘイトスピーチや、現役の国の元首をパロディにした映画なども、限界なく表現の自由で保護されるべきものなのだろうか?

 一つの線引きとして、攻撃的、侮蔑的な意図をもって対象を表現することはできないとすることもできる。あるいは、表現の自由といってもその対象に対しては最低限の敬意を払うべきだと言うこともできる。でもその線引きは実に恣意的だ。その「攻撃的、侮蔑的であるか?」「対象に敬意が払われているか?」を判断するのは誰なのか?送り手なのか、受け手なのか、それともそのどちらでもない第三者なのか?先に指摘した通り、送り手にその気がなくとも受け手が「侮蔑だ」とすることもある。また、ヘイトスピーチに対する規制の話題でも、受け手の他に規制する側(権力者)がある意思をもって運用された場合、過剰に表現の自由が侵されるかもしれないという危惧が指摘されている。送り手が攻撃・侮蔑の意図はないと宣言すれば表現の自由の名の下に無罪とするのか?この例でも、先日は自分の女性器を3Dプリンタで表現したアーティストが逮捕された。猥褻罪。アーティスト自身は「猥褻な意図ではない」と宣言している。それでも彼女は逮捕された。処罰、規制の運用がこのケースをもっと極端にしたような形で行われたらどうなるか?主観でしか判断できない線引きは、いくらでも恣意的な運用ができる。これでは誰もが納得する線引きは難しい。この規制が行き過ぎると、実質的に表現の自由は失われ、非常に安全性の高い表現しか残らなくなる。最終的には伊藤計劃の『ハーモニー』でミァハが語る台詞が現実味を帯びる日がくるのかもしれない。

 昔の人の想像力が、昔の文学や絵画が、わたしはとってもうらやましいんだ。誰かを傷つける可能性を、常に秘めていたから。誰かを悲しませて、誰かに嫌悪を催させることができたから。

 表現の自由の限界はどこまでかという話にはここで結論は出せない。けれど一点、いくら表現の自由といっても表現はその名の下にすべてが無罪でありノーリスクであるわけではないということは忘れてはいけない。法律を犯すような表現、極論すれば殺人をアートだと称することは明らかに自由の範囲を超えるし、仮に攻撃的・侮蔑的な表現が自由だとして保護されるとしても、相手にも逆に怒り、恨む権利はあるし対抗する権利もまたあるということは忘れてはいけない。怒りや恨みによる対抗的な表現もまた自由だからだ。「表現の自由で私はあなたを攻撃するよ。でもあなたは私を攻撃しないでね。これはあくまで表現。表現の自由なんだから」とはならない。

 だから表現者は自分が行う表現に対してリスクを自覚的に覚悟しなければいけない。反論や対抗の可能性を意識しなければいけない。表現に対する責任を負わなければいけない。しかるに今回の件。サウジアラビア等のイスラーム諸国では今でも神の冒涜に対して死刑が求刑され、実行される。イスラームにおいて神の冒涜は極刑に値する罪なのだ。その論理と、特に911以降の欧米諸国とイスラーム過激派の悲惨な戦闘の経緯を鑑みれば、イスラームの神や預言者を冒涜する行為の代償として死を求められるリスクは確かに存在した。そのリスクを請け負った上で、命をかけてまで表現しようという気概が果たしてあったのか。自分もネットで問題となった漫画を見たけれど、あの本当にくだらない1コマ2コマのカットにそこまでの覚悟があったとはとても思えない。画像をここに転載したくもないくらいくだらないあの漫画に、命を落とす価値があるとは、申し訳ないけれど自分にはとても感じられない。

 少し話は逸れるが、表現に対する責任を負うとは言っても、表現の結果生じた事態が、とても責任を負えないレベルに達することもありうる。最近話題になった北朝鮮の現役総書記をパロディにした映画をきっかけにサイバー攻撃の応酬が始まった件等、自分の表現が国家間の関係にまで影響を及ぼした場合、個人の表現者は一体どうやって責任が取れるのか?もし、この件で北朝鮮がミサイルを飛ばして戦争が始まったりしたら?リスクは表現者の手を離れてどこまでも拡大する可能性がある。だからといって自分の手に負える範囲でしか表現をしてはならないと言えば、それもまた表現の自由と可能性を奪うことになるのでそこには慎重にならないといけないが、せめて表現者は自分の表現のリスクに対してはある程度自覚的でいるべきだと思う。すべてを予見することは当然できないだろうけど。

 ただこの事件では、犯行者が12人もの命を奪ったのはあきらかにやりすぎだ。確かにあの漫画もひどいものではあった。正直あのただ対象をバカにするだけで政治的主張も何も感じられないような浅薄な風刺画は、表現の自由といって守るほどのものなのかなと悩んでしまうくらいだ。だが、それにしても命を奪うことはない。今回のような致命的な暴力による表現への弾圧、脅迫はあってはならない。先に「イスラームにおいて神の冒涜は死に値する」と書いたが、実はこれは国家が定めた政治的な決まりであって、教義で定められているものではない。ハンムラビ法典では「目には目を、歯に歯を」と言われるが、これもまたよく言われる「自分がやられたことをやり返すべき」という意味ではないそうだ。あくまでイスラームの教義においては相手を許すことが一番いいとされる。けれどもどうしても許せない場合には「自分がやられたことまではやり返してもいいよ」と、報復のレベルに制限をかけるための法だということだ。ハンムラビ法典は限度のない復讐を明確に規制している。だからせめて、表現による侮辱には表現による侮辱で対抗すべきだった。相手に瑕疵があるとはいえ、命を奪う手段を取るべきではない。

 今回の事件に対する抗議デモの中で、コーランの一節を引いて抗議のメッセージを掲げている写真をTwitterで見かけた。そこにはこう書かれているという。

 互いに殺しあったのはあなたがたであり、(中略)凡そあなたがたの中でこのようなことをする者の報いは,現世における屈辱でなくてなんであろう。また審判の日には,最も重い懲罰に処せられよう。アッラーはあなたがたの行うことを見逃されない。

 事件の後、今度はイスラーム関係の施設が各地で襲撃されているとの報が入ってきている。イスラームも我々も、このコーランの一節を、じっくりと噛みしめる必要があるのではないだろうか。

 このような痛ましい事件が、もうこれ以上起きないことを祈ります。

2014年12月19日金曜日

梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

 ナショナリズムの画期的な研究家として名高いベネディクト・アンダーソン。日本でも右傾化が懸念され、隣国である中国や韓国、北朝鮮の動きも気になる中でナショナリズムとは何かを考えてみたいとずっと思っていた。奇しくもスコットランドやスペイン・カタルーニャ地方の独立騒動もあったこの年、まずはベネディクト・アンダーソン本人の著作の前に、比較的手軽そうな新書から手を出してみようとこの本を手に取った。

 この本の内容は大きく二部に分かれる。前半は2005年4月に国際シンポジウム「グローバリズムと現代アジア」の中で二日間にわたって行われたベネディクト・アンダーソンの講演の収録。そして後半は編著者である梅森直之氏によるアンダーソンを読むに当たっての基本的な考え方の紹介と講演の解題という形になっている。

 自分の勉強も兼ねてこの本の内容をまとめてみようとこの記事を書き始めてみたのだが、これが非常にまとめにくい。これは本の前半に来ているアンダーソンの講演が事前に氏の著作を読んでいることを前提にしているため、予備知識なしで頭から読み進めていくと少々わかりづらい点があるからだ。なのでこの記事は本の内容を書かれている順にまとめていくことはせず、本を読んでここから自分が理解したことをまとめていくような形で進めていくことにする。

 ベネディクト・アンダーソンはナショナリズム、ひいては「国民」「ネーション」という意識はいつどこで、どのようにして生まれ、世界に広がってきたのかを考える。そしてその意識が世界にどのように影響を与え、相互作用してきたのかを注意深く観察していく。「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」とはアンダーソンの有名な言葉だが、果たしてそれはどのような意味なのか。

 今では「国民」や「ネーション」といった概念は一般に普通に受け入れられている。だが法律的には、例えば日本人なら日本国籍を持つものが日本人でいいはずなのに、実際の「国民」の意識の区切りはそうなっていない。例えば日本に帰化した外国人は日本人か?逆に日本で生まれ育ったが外国に帰化した日本人はどうか?仮に日本に帰化した元横綱・武蔵丸を日本人とみなさず、ノーベル賞受賞時には既に日本国籍のない中村修二氏を日本人とみなすようなことがあるのであれば、その国籍以外の要素で区切られる国民、ネーションの意識とは何なのか。この点をまずアンダーソンは探求する。ナショナリズムとは何なのか。

 それはまず、近代の発明(国籍という制度ができたのと同時に発生した概念)であるはずの「日本人」が、あたかも太古の昔に起源を持ち、今日に至るまで面々と続いてきたと主張する(国民の古代性)。次にそれは、実際にはかなりの人が出たり入ったりしているはずの「日本人」の境界を、閉ざされたものであるかのように装う(国民の閉鎖性)。最後にそれは、さまざまな偶然の結果である人間の集合を、共通の運命によって結ばれた共同体に変える(国民の共同性)。-『想像の共同体』より

 この問いへの答えとして、アンダーソンは時間と空間に着目する。どのように人々が時間というものを認識しているのか。宗教的な時間、民俗的な時間、デジタルに刻まれる時間によって、人々の認識がどのように変わるか。また同様に、目に見える景色が、地図に描かれた空間が、人々の認識にどのような影響を与えるか。それがネーションの意識を規定すると。

 時間が何故ネーションの意識を規定するものとなりえるのか。アンダーソンは「2014年12月20日 21時27分」というような日常で用いられる標準的な時間を「均質で空虚な時間」とし、このような標準的で過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間の感覚は歴史の中で発明されたものだと言う。本来歴史や文化によって多様であった時間感覚を、世界共通の「均質で空虚な時間」が浸透することにより人々の間に「同時性」の感覚が生まれた。そのことで世界の人々は時間を共有することが可能になった。かねてより人類学の世界は提唱されている、時間の発明だ。標準的な時間を得ることにより、まず人類は「時間を共有するコミュニティ」としてまとまることになる。

 ここから時間を共有した人々の中にさらに「ネーション」という概念が生まれるには、加えて空間が境界によって区切られなければならない。解放された時間による共有から、空間による細分化によりネーションが生まれる。その役割に、ネーションを境界で区切るきっかけ作りに、貢献したのが言葉だった。ネーションの意識の空間的な源泉として、言葉が通じる範囲、つまりコミュニケート可能な範囲が原初のネーションとして意識されたわけだ。

 標準的な時間と言葉によって区切られた原初のネーションの意識を、さらに細分化し強化したのが「出版資本主義」だとアンダーソンは指摘する。出版資本主義はまず商圏の拡大のために方言を統一化した「標準語」を生み出した。日本語で例えれば、東北弁で書かれた新聞を九州の人がすんなり理解するのは難しいので、便宜的に日本全国で通じる文字通り「標準的な」言葉として標準語が生み出された。これにより出版資本主義は新聞や雑誌を「全国に」売り出すことが可能になる。そして人々は新聞や雑誌を読む度に同じ時間と、言葉によって区切られた空間を共有し、集団への帰属意識を高めていった。このようにして「想像の共同体」は生まれる。

 そして時間と空間で区切られた共同体に愛着を与え、ナショナリズムを生み出すきっかけとなったのが植民地で生まれ育った人々、クレオールだという。決して本国と同等の立場になることのないクレオールの本国に対するコンプレックスはそのまま自らが属する共同体への愛着へと裏返され、そこに「国民」「ナショナリズム」という観念が生まれる。後でまた触れるが、その植民地で生まれたネーションへの強い愛着、「国民」という強い意識が、ナショナリズムとなって一連の植民地解放運動の力となった。

 そして一度生まれた「国民」という概念は模倣可能な「モジュール」となり、模倣を通じて世界中に伝播していくことになる。2005年の公演、この本の前半部では、アンダーソンはそのモジュール化されたナショナリズムが初期グローバリズムの中でどのように世界各地で模倣され、広がっていったかについて語っている。

 もう一つ、クレオール発の国民意識を民衆の意識に自発的に芽生えたボトムアップ的なナショナリズムだとすれば、権力側が民衆を自分たちの帝国により強く結び付けようと意図的に国民意識を植え付けるトップダウン的な「公定ナショナリズム」とアンダーソンが呼ぶものが生まれてくる。これは世界、特にヨーロッパ各地でナショナリズムというモジュールが模倣され、伝播し、民衆運動が盛んになる中、それを脅威に感じた権力が民衆をより強く自国に結び付けておくために試みられた。開国から明治国家形成に至るまでの日本のナショナリズムもここに分類されている。黒船来襲以来、外国の脅威を目の当たりにしたこの時期の日本は、他国に飲みこまれないためにも国民の帰属意識、ナショナリズムを強めていく必要があったのは想像に難くない。

 では実際、上記のように生まれたナショナリズムの概念が19世紀末から始まる初期グローバリズムの中でどのように広がっていったか。グローバリゼーションが生まれる要因も含めてアンダーソンは言及する。グローバリゼーションの発生・発展のきっかけとなった出来事は2つ。1つはモールスによる電信の開発、そしてもう1つは世界中をつなぐ輸送、物流の発展だった。

 およそ130年前、瞬時に情報を世界中に伝えることができる電信の誕生によって初めてグローバリゼーションは可能になり、誕生した。電信は1850年代に急速に世界中に広がり、1870年代には海底ケーブルが主要な海洋をすべて横断し、つなぐまでに発展。やがて絵や写真も送れるようになる。この電信により人類史上初めて、情報が瞬時に世界中を駆け巡る時代が到来する。もちろん現在のインターネットほど便利ではないが、それでも情報が一瞬で世界中に届く時代は、もうこの頃に生まれていた。

 そして汽船や鉄道の整備が世界中で進んでいき、1874年に万国郵便連合が設立されると、手紙、書籍、雑誌、新聞などがこれまでにない規模で国境を越えて大量に輸送されるようになる。これによりローカルにいながらにして世界中の情報、写真等にも触れることができるようになっていく。早くて安全な蒸気船の交通網が発達することで世界の物流は効率化され、海を渡る巨大な人の流れも生まれる。これら電信と輸送の発達を背景に出版と商業がつながり情報がグローバル化したこと、これをアンダーソンは「出版資本主義」と呼んでいる。出版資本主義は先の標準語の発明で商圏をまとめ、さらに翻訳によって世界中に情報を運んでいった。この「出版資本主義」が世界中の植民地で起こるナショナリズムをつなぎ、伝え、そしてそれが世界各地で模倣されたのが初期グローバル化の空間だったとアンダーソンは言う。

 19世紀の末、世界各地で同時多発的に白人帝国主義と植民地の戦いが始まる。ホセ・マルティが起こしたキューバ革命、ホセ・リナールのフィリピン革命、南アフリカにおけるイギリスとボーア人の戦い…。発展した電信と輸送は、これらの国々の植民地勢力がお互いに連絡を取り合うことを可能にした。また他の国々は新聞や雑誌等を通じてこれらの植民地解放運動の情勢を知ることとなり、それはあらためて自国の「ネーションとは何か、どうあるべきか」を意識させるきっかけとなった。出版資本主義はネーションの概念を伝えるだけでなく、植民地解放のためにどう戦うかまでもモジュール化し、模倣の助けとなっていた。

 同様の情報伝搬による模倣は19世紀末から20世紀初頭のアナーキズムにおいても起こり、それは世界各国の主導者の暗殺という形で具現化された。アナーキストたちは世界各地の情報をグローバルに見聞きし、模倣し、実行したわけだ。その実行には各地のナショナリストも多く関わった。アナーキストたちは要人の暗殺を世界に対するメッセージとして利用し、それは出版資本主義により世界各地に伝えられ、目論見通りの効果を上げた。

 このように、通信と輸送の発達によって遠い国のナショナリズムやアナーキズムがグローバルに広がっていき、世界中にナショナリズムが強く意識され、芽生え、実行されていく。それが初期グローバル化の時代に起きていたことだった。

では現代はどうだろう。アンダーソン曰く、第二次世界大戦の終結から実に1980年代までナショナリズムはヨーロッパにおいて妖しげな観念に他ならなかった。ヒトラーと様々なナショナリズム、ファシスト政権、日本の軍国主義的帝国主義、それらが引き起こした凄惨な光景を目の当たりしたからこそ、ヨーロッパでナショナリズムは反動的で遅れたもの、研究する価値のないものとみなされていた。しかし1960年代から1970年代にかけて、世界各地で多くの地域が植民地からの独立を勝ち取っていき、75年のポルトガル帝国の崩壊を持って植民地解放の時代が終わる。そしてさらに重要なことに、時期を同じくしてヨーロッパ内部において地域ナショナリズムの萌芽が芽生え始める。スコットランド、ウェールズ、カタルーニヤ、バスク、ブルターニュ、シチリアなど。これら植民地の解放と地域ナショナリズムにより、時代遅れと思われていたナショナリズムは新たな形で勃興していく。

 公演後の質疑応答の中でアンダーソンは今後ナショナリズムによる国家の領土の拡大は考えにくいが、逆にネーションのさらなる分割は充分起こりえると話している。特に脆弱なのはイギリス、ロシア、中国にインド。ヨーロッパではスペインも、と。この講義が行われたのが2005年、本として出版されたのが2007年。その後、世界ではアンダーソンが言及したような事象が多数起きてきている。アラブの春では民衆蜂起によるチュニジア政権崩壊を発端に、ヨルダン、バーレーン、リビア、そしてシリアと次々に飛び火。Facebookを使った情報のやり取りはまさにモジュール化され、模倣されていった。ウクライナではクリミア自治区が騒乱を起こし、スコットランドではイギリスからの独立を問う住民投票が実施された。時期を同じくしてスペイン・カタルーニャ地方でも独立を問う非公式な住民投票が実施されるなど、ここ数年でナショナリズムの動きは活発化しているように思える。隣国中国の尖閣諸島、韓国の竹島での動きももちろんだ。

 これらの動きに対して、この本では予見はしていてもその後どうなるか、どうすべきかという話は出てこない。それはこれから語られるべきこと、あるいは我々が自分で考えていくべきことなのだと思う。

 自分はベネディクト・アンダーソンをレヴィ=ストロースや、あるいはガルシア・マルケスの正当な後継者だと感じた。本人も『想像の共同体』は正真正銘の構造主義的テクストだと思っていたと語っている(ただし、実際にはデリダやフーコーの影響が強く感じられるポスト構造主義的、ポストモダン的なテクストとして受容されたとも語っている。執筆当時アンダーソンはデリダもフーコーも読んだことはなかったそうだけど)。そしてこの『想像の共同体』は意外なことにあのジョージ・ソロスによって旧ソ連内のすべての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本の1つに選ばれている。意外な人物が出てくるものだ。

 最後に、ここ数年また活発化してきているナショナリズムの今後を占うために、『想像の共同体』の時点では考慮されていなかったがその後アンダーソンが重視するようになったというネーションとグローバリズムの関係について触れておきたい。ネーションの比較研究のためにはネーションをあたかも境界づけられた1つの単位であるかのように扱い、比較の物差しをはっきりさせないといけないとアンダーソンは言う。けれども実際のネーションは絶え間ない動きのうちにあり、変化し、他のユニットと相互作用していく。だからこそナショナリズムをグローバルな文脈で比較し、論じるためにはナショナリズムがそこで生じ、変化し、相互作用する重力場について見なくてはいけない。今後の世界情勢を見ていく時、この視点は重要だと感じる。ナショナリズムの動きが世界で活発になってきている現在、アンダーソンのような視点でその動きを解明していく思考は大切ではないだろうか。自分としては今後是非、『想像の共同体』を始めとする氏の著作も読んでいきたい。

2014年12月9日火曜日

日本農政私感-自由競争の前提条件

 突然訪れた衆院選。アベノミクスに対してYESかNOかというような論点が主流のようだが、そんな中今、日本の農政はどのような方向に進むのがよいのか。これまであまり考えを表立っては述べてこなかったが、自分なりの意見をここに書いてみたいと思う。

 まず現在の農業、特に新潟をとりまく状況を簡単に眺めてみる。新潟と言えばやはり生産者の収益やマインドに大きく影響するのは米、特にコシヒカリの動向だ。新潟コシヒカリ(一般)の生産者米価を見てみると、近年だけを見ても2012年に15000円だったものが今年2014年は12000円に下がっている。わずか2年で実に20%の下落。消費低迷や在庫過剰、MA米、TPP(これはどうなるかまだわからないけれど)の現状を考えると今後も米価自体が上がっていく状況にあるとは考えにくい。この見通しが新潟の米生産者の意欲に暗い影を落としている部分があることは正直否めない。

 例えば生産者米価の全国下限が7000円程度になれば国際市場でも価格的に戦えるという。国としてはTPPを見据えてこのレベルまで米価を下げたいという思惑があるらしい。今年の仮渡金の全国下限が8810円。それを7000円まで落とすには現在からさらに2割強価格を落とす計算になるので、同じ割合で新潟コシの価格も下落すると仮定するとその時の価格は約9500円。一万円を切ってしまう。ここ2年で2割生産者米価は落ちたというのに、さらにそこからまた2割落とす。当然その分売上は小さくなり、収益を圧迫する。

 そんな中、国の政策は簡単にいえば大規模化・集約化。若く意欲のある農家に農地を集めて大型機械を導入し、作業の効率化をはかることで生産コストの低減を図り競争力を上げようというもの。でも冷静に考えてほしい。大規模化・集約化程度のことをいくらやったところで、生産者米価の2割下落×2をカバーできるほどのコスト削減ができるだろうか?それほど大きなコスト削減は、ただ単に大型化と集約による効率化だけでは難しいと言わざるをえない。今回の選挙の街頭演説でも一様に候補者は「米の値段が下がる。苦しいです。でも頑張りましょう」と声を張るが、どう頑張れと言うのか?

 さらに言えば機械のコストは上がる一方。大きな要因として鉄や原油等の原料の値上がりがあるが、それ以外に政治的な要因がここにきて大きく響いている。その最たるものがディーゼルエンジンの排ガス規制。この排ガス規制は2014年11月から50馬力以上が、翌2015年9月からは25馬力以上が規制の対象になり、それぞれ排ガスをクリーンにするための装置を付けていかなければならない。その装置を付けることにより機械の実売価格がモノにより違いはあるものの30万円~100万円も跳ね上がる。500万円クラスの機械で100万円上がるケースもある。現在米の生産者が使用しているトラクターやコンバインは個人でも30馬力以上が主流になっているし、大規模な生産法人となれば50馬力以上のものが一般的だ。果樹で使う防除機、ステレオスプレーヤも600L以上のクラスはすべて25馬力以上のディーゼルエンジン。これらが軒並み政治的な理由で、生産性が上がるわけでもない機械の更新により価格が大きく上がる。

 エンジンだけでなくモーターも値上がりする。省エネ法の施行により2015年4月以降生産される機械に関しては現行のモーターよりエネルギー消費効率のよいトップランナーモーターを使用しなければいけなくなる。それによりモーターを使っている機械はモーター一つ当たり軒並み3万円~5万円価格が上がる。米農家の機械でいうなら乾燥機や籾摺機がこの対象になる。農水省の議事録を読んでいると相変わらず農業は省エネやエコに積極的に貢献していくべきだとの論調ばかりでそれに対するコスト面の批判は出ていないようだが、余計なことをやるとコストは上がるということは少しは認識してほしいもの。

 その他ビニールや肥料、農薬といった資材の価格もデフレ下においてですらずっと上昇が続いており、生産物の消費者価格が下がる一方でコストは右肩上がりに上がっていく。

 このように最終生産物の価格が下がっていくのにコストは大きく上がっていく中、農業が生き残るために必要な要素は何か。補助金だったり海外生産だったり色々と考えられることはあるが、一番大事なことは生産物の価格決定権を生産者に与えることだと思う。関税自由化も市場原理による自由競争も結構なことだが、自由競争といいつつ農協等の卸が買い取り価格を一方的に決め、生産者がその価格で出荷するという現在の制度では農業経営も何もあったものじゃない。

 米なんてその最たるもので、昨年の在庫がたくさん残っているから買い取り価格を下げますという指示を全農が出し、民間の業者の買い取り価格すら程度の差はあれそれに準じる。供給過多で値段が下がるのはマクロ経済における神の手として理論上理解できるが、それを卸が勝手にやるのが自由経済なのか。それは神の手ではない。人の手だ。

 去年の米が余ってるから今年の米を安く買いますというのもおかしな話で、去年の古米と新米では誰が食べてもわかるくらい風味には違いがあるのに、それを同列に扱って新米を安く買いますよというのは完全に卸の都合でしかない。本来は次の年の新米が出てくる時分になっても買った米が余ってるのは買った卸の責任で、卸は風味の落ちる古米を安く売る等で在庫処分しなければならないはず。なのに売れ残った責任を生産者に押しつけて自分達は新米を安く買う。そもそもこういったことがまかり通っていること自体が自由競争というならおかしいだろう。卸は次の年まで残らないように見越して米を仕入れ、もし次の新米が出てくるまで在庫があったなら安売りでも何でもして在庫処分。つまり買った分に関しては自分がリスクを負うのが正しい形なのに、そうはならずに卸がリスクを徹底的に押しつけて今の農業界は成り立っている。

 現状は農協が需給を見て価格調整する形で、その代わりに生産者がいくら出しても農協側では(等級等検査はあるものの)買い取りますよという形で成り立っている。少なくとも米に関しては野菜と違ってせっかく作ったものを出荷できずに廃棄というようなことは(一定品質に届いていない分は除いて)起きていない。生産者としては作った米を出荷できないリスクはない代わりに、価格決定権は手放していたという形だ。

 今後は減反廃止に合わせて生産者が需給を見て、例えば主食用米を作るのか飼料用米を作るのかを決めていってほしいと国は言う。そうであるなら合わせて農協等の卸も自己責任で在庫管理を行うようにし、出された分は何でもかんでも全量買い取るという方向を改めるべきだ。卸が主食用米が供給過剰・在庫過多でもう買えないし、生産者も主力用米を作っても売れないという状況で自らの意思でそれでも買い取りをしてもらえる飼料米に生産をシフトするなら話はわかる。けれども今のように卸が主食用米の価格を下げて、仕方がないから飼料用米と補助金で息をするというような在り方はとても自由経済とはいえない。

 だからまず、健全な自由競争を行う上で、農協のような卸があらかじめ価格を決定するのでなく、生産者が価格を決定できることは絶対必要になる。そうして初めてコストの転嫁や需給調整ができる。農協のような卸も米が残ったから安く買うなんてことはできなくなり、自分の仕入れに責任を持たなければいけなくなるから、売れる見込み分しか仕入ないようにするしかない。そのような状況になれば生産者も供給過多で自分が提示した金額で買う卸がいないなら価格を下げようか、あるいは需要が多くて価格を上げられるなら上げようか、それとも何か違ったものを作ろうかという自由競争が行えるようになる。

 農業で自由競争を導入するなら、合わせて農協の解体も必要になってくるだろう。よく言われるのは金融部門の切り離しだが、自分はむしろ集荷・出荷業務、いわゆる農協の卸業の部分のみ切り離し民営化でいいと思う。農協の営農支援や金融は生産者にとって有益な部分も多くあり、むしろ急いで民営化する理由は自分には見当たらない。

 農協の卸業部分を切り離す目的は、民営化・営利化することで農協間の卸業務の価格競争を促進すること。そのために現在広域合併が進み巨大化している農協を、民営化のタイミングで再度細かい地域レベルに細分化する。生産者が最寄りの農協が自分の提示価格で買ってくれなくても簡単に隣近所の農協に買ってくれるかどうか打診できる状況が大事だ。そのような状況を生み出すことで「この価格で出さないなら買わない」と卸の側が強気に出ることを牽制する。農協の卸業務が民営化されれば独禁法の対象外となるので、地域の農協すべてが結託して価格決定ということも当然できない。このようにして自由経済が活動できる場をまず整えることが肝要だ。

 今でも産直ではこのように生産者が価格決定権を持った上で自由経済を営むという動きは出ていて、自分はそれを歓迎している。けれども、一般的に産直でさばける量は農協やスーパーへの出荷と比べると多くはない。一部スーパー等で生産開始前にあらかじめ価格を決定した上での契約栽培等の方法も出てきていているが、それもまだ一般的というには程遠い。だからこそ量を確保できる農協等の卸に対して生産者が価格決定権を持つということは重要になる。

 前提として、生産者側でも原価を正確に管理することは必要だろう。現状、生産コストが正確にいくらかかっていて、品種や作物ごとの利益率はどのくらいかということを正確に把握している生産者は少ない。でもそこをしっかり管理し損益分岐点を正確に把握することで初めて値下げをどこまでできるのかの駆け引きもできるようになる。余談ながら、日本の農業でIT化を導入するとしたら、オランダのIT農業みたいに生産物の管理をする前に、まずこうした労務費も含めたコスト管理の部分から始めるのが費用対効果としては高いのでないかと思っている。それは価格決定権を持った自由競争下で効いてくる投資となる。

 生産者が価格決定権を持ち、農協等の卸が仕入に責任を持つようになることで、国が望むようにTPPを見据えた農産物の輸出にもむしろ対応はしやすくなるだろう。現在は輸出用の米は数少ない業者が主食用米よりも安い価格で買い、生産者側へのメリットとしては輸出米分は減反分として認めることで調整されている。そうではなく、卸は生産者から主食用米と同じ価格で仕入れればいい。仕入れた後国内に売るのか輸出するのかというのは販売する卸の責任であって生産者の問題ではないのだから、輸出するからといって生産者が卸への販売価格を下げる理由は本来ない(始めから輸出用にコストを抑えて安価な品種を契約栽培、といった形は別として)。農産物の輸出を国が促進していきたいというのなら、その分の補助を生産者に出すのでなく輸出を行う卸業社に出せばいい。そうすることで農産物の輸出業者は自動車などの工業製品と同じ「輸出企業」になるわけだから、そのサポートはこの国は手慣れたもの。円安誘導もできるし、法人税の特例措置で税金下げてもいいし、輸出量に応じて補助金を出してもいい。国も大好きなグローバル企業と同じ扱いで農業の促進もできるようになるのだから、むしろ扱いやすくなるのではないだろうか。円安で日本の農産物価格が安くなり海外需要が増えれば、卸はどんどん国内の農産物を仕入れればいい。そのサイクルがうまく回れば国外へ向けての供給が増え生産者価格も上がり、農業の景気もよくなるだろう。何しろ世界的に見れば今も、そして今後はもっと、食糧は不足しているのだから。

 まとめると、自分が考える今後の農業の理想形は大雑把に以下のようになる。

 ・生産者が生産物に対して価格決定権を持つ
 ・農協の卸部門は切り離し、民営化する
 ・卸は仕入れた生産物の販売を生産者に責任を押し付けず自己責任で行う
 ・生産者はコスト管理をより厳密に行う

 最低限上記をクリアすることで市場原理の中で農業が自由競争を行う準備が整うことになる。その上で、卸が販路を国内だけに向けるのでなく海外へ輸出するという動きを、国には精一杯サポートしてほしい。人口減少時代に入る日本では、国内需要を大きく伸ばすことは難しい。それよりも今後食糧不足が深刻になる世界に向けて食糧を供給していくことが明るい道だ。自分はそう考える。

 今回は特に大規模大量生産の一般的な農業生産者が発展するための条件について書いてみたが、これとは別に品質やブランド化にこだわり、プレミアのついた生産物を少量生産することで発展する道もあると思う。あまり肯定的ではないけれど六次産業化なども実はこちらの道だ。こちらについてはまた、いつか改めて書いてみたい。

 …で、このように思い描いているヴィジョンを現実のものとするためには、自分は今回の衆院選、一体どこに投票すればよいのだろう???

2014年12月1日月曜日

雑記帳を振りかえって

 先にお知らせしました通り、当『あゆむの雑記帳』は2014年11月一杯をもってこのGoogle Bloggerに引越をいたしました。このタイミングで一つ、究極の自己満企画としてこの雑記帳のこれまでの歴史を、自分用の記録の意味も含めて振り返ってみたいと思います。

 かねてより7月7日を「この雑記帳の公開記念日」としているように、さくらのサーバにHTMLをアップしてインターネットで公開を始めたのが1998年7月7日。自分が大学2年の時です。が、公開前の記録も僅かながら今でも辿れる部分があります。それによると同年5月24日、この日に初めて『あゆむの雑記帳』の原形がサーバにアップされたようです。といっても学内からのみアクセス可能なサーバで、まだインターネットに公開したわけではありません。HTMLやホームページ作成のお勉強も兼ねて、イントラネット内に上げただけでした。このころはページのタイトルが『Beyond the Dayunite』となっていて、背景は公開時のようなノートスタイルではなく黒一色だった、…ということですが、そのデザインはおぼろげに記憶には残っているものの、記録には残っていないので今となってはどのようなものだったか…。

そして6月17日にデザインを一新、初代『あゆむの雑記帳』として公開された時の左のようなノートを意識したデザインに変わります。縦フレーム使って左にメニュー、右にコンテンツ。当時このスタイル流行ってました。ボタンの画像やロゴも、当時大したアプリも持ってなかったし、今みたいにフリーの画像加工ソフトもない中クラリスワークスやGraphic Converterで一生懸命作った記憶があります。何もかもが懐かしい…。スクショはバックアップして取っておいてあいた当時のHTMLファイルを開いて撮りました。

 このデザインに変更後、とりあえず公開できる体裁は整ったと判断したのか、6月23日に学内のサーバながらインターネットに公開できる位置にとうとう雑記帳のHTMLをアップします。仮公開というわけですね。そしてその後、さくらインターネットのレンタルサーバーで正式公開を始めたのが当HPの開設記念日としている7月7日ということになります。当時のURLは「http://na.sakura.ne.jp/~ayum/」でした。そのタイミングでいささかのJavaScriptも装備。ただ時間ごとに表示するメッセージを変えるだけの簡単なスクリプトではありますが、当時の自分は大満足でした。夜11時台に表示される「テレホーダイだ!戦闘開始!!!」というメッセージなど、実に時代性を表していてノスタルジックです。そう、当時はまだ今みたいなネットへの常時接続なんてなくて、ISPに電話をかけて回線をつなぐダイヤルアップしかなかったのですよね。だから当然電話代が普通にかかる。日中好きなようにネットにつなぎっ放しにしていると電話代の請求がとんでもないことになるので、多くの人は夜11時~翌朝7時までの間、あらかじめ登録してある特定電話番号への電話がかけ放題になる『テレホーダイ』なるサービスを利用してインターネットを利用していたわけです。だから夜11時を過ぎると如実にネットが賑わい始める。そんな時代でした。テレホタイムという言葉も今は昔、ですね。あのダイヤルアップルータがつながる時の「ピッポッポッパッパッパ…、ガーーーッ、キーンキーンキーン」みたいな音が懐かしい(笑)。

 当時既にHomepage BuilderやPageMillみたいないわゆるホームページ作成ソフトは出回っていたし、いくつかは持っていたのですが、そこは敢えてHTML手打ちにこだわり、テキストエディタJEdit2を使ってEUCエンコードで、ひたすら手組でHTML組んでHPを作成してました。ホームページ作成ソフト使うと色々と余計なタグが付与されるのが気に入らなかったんですよね。なので左のような過去のアーカイブへのリンク、これもある程度まとまった時点でHTML分けてリンク作って…、っていちいち手でやってたわけです。う~ん、頑張ってましたねぇ、自分(笑)。

 この初代雑記帳にはPerlによるCGIでBBSなど用意してありまして、大学の仲間なんかはよくそのBBSへの書き込みで盛り上がったものです。そういう意味ではこの頃が一番訪問者も賑やかだったと思います。

しばらくは上記のような体制で運営していた雑記帳ですが、2000年台に入りHTML手打ちも時代の趨勢に合ってないなというのと、当時仕事でMovable TypeだのXoopsだのいじる機会もあったので、そろそろ自分のHPもシステム化しようかと考え始めました。それで準備を始めたのが記録によれば2004年10月。自分のMacbookにMovable Typeを入れたという記録が残っています。それ以降コツコツとデザインを作っていったりコメントスパム対策入れてみたりと準備を進めていき、最終的にドメインも取得してayum.jpとして公開したのは翌2005年7月31日。元の記事では7月31日になってるのですが、Blogger移行時に何故か記事の日付が8月1日としてインポートされた様子。原因究明はさておき、ほぼ2005年8月1日からMovable Typeによる新体制『あゆむの雑記帳』がスタートしたわけです。

デザインはネットでフリーで公開されていたテンプレートをベースに、トップページは3カラムながら日記等の詳細に入ると2カラムで広く表示、というスタイルにこだわりカスタマイズ。シンプルでスッキリ見やすいデザインは気に入っていました。自分でデザインやるとなかなかこうはできないですね(苦笑)。

 Movable Type導入で一番助かったのはやはり更新時にHTMLを手打ちしなくても済むようになったこと。おかげで更新の労力は大分少なくなりました。ただ、やはり記事中に画像を入れようと思ったらテーブルを手で組まないと並ばないんですよね。画像のアップロード機能もちょっと頼りないので、結局自分でサーバに直接アップしたり。それでもこのシステムで9年半、さすがに親しんできたので乗り換えるのはやや寂しい思いもあったのは確かです。でも次第にスパムのコメントやトラックバックに悩まされるようになってきて、ここ1年はどちらも完全に閉鎖してしまうありさまでしたから、システム的にもさすがに寿命だったと考えています。コメント欄の閉鎖の代わりに、Facebookのソーシャルプラグインを埋め込んでFB経由でコメントをできるようにはしてみましたが、それほど活用はされませんでした。やっぱり基本的に日本ではネットは匿名文化ですからね。FBの中だけでならまだしも、FBの外でまで実名でコメントしようってのはなかなか心理的にもハードル高いのかもしれません。

 そして今、2014年12月からこのGoogle Bloggerでの運用が始まるわけです。HTMLファイルからシステムに移行した前回と違い、今回はシステムからシステムへの移行なので準備期間はかなり短く済みました。Movable Typeからデータをエクスポートして、Movable TypeのデータをBloggerへのインポート用の形式に変換してくれるMovabletype2Bloggerというサービスを用いてデータを変換、Bloggerへインポートで済みます。簡単です。過去記事をHTMLからコピペして一つ一つ移行していた前回から比べると天国のようです。とはいえそれなりの年月が経ち記事数が増えたこの雑記帳、一日のインポート数の上限に引っかかったりなんだりで少しは手間もあったのですが、それでも前回に比べれば遥かに楽です。およそ1580の日記が暇を見ての作業で一週間程度で完了するんだから大したものです。前回はシステム構築からデータ移行まで、全工程で半年以上かかっているというのに、引越しを決断したのが11月中旬で、その月のうちにもう公開までこぎつけるのだから素晴らしい。今のブログサービスはデザインの変更のしやすさ等も含めてとてもユーザビリティしっかりしてます。投稿時の画像の埋め込み、レイアウトが簡単にできるのも非常にいい。ローカルからのアップロードだけでなくてPicasaウェブアルバムからも取ってこられるのは嬉しいです。まぁいいことばかりでもなく、これを書いている現時点では設置したブログ内検索で自分のブログを検索しても何も引っかかってこないとかあるわけですが。DB内を直接検索してるわけではなくて、あくまでGoogleのブログ検索を利用しているわけですからクロールされるまでのタイムラグがどうしてもあるわけですね。そればかりは仕方ない。

 さてさて、こまごまとこの雑記帳の歴史を語ってみました。思い返せば色々なことがあるわけですが、16年を超える月日を細々と続けてきたこのページ、新しいサービスに引越しはしましたがまだまだこれからも続けていく所存です。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

2014年11月30日日曜日

あゆむの雑記帳 引越のお知らせ

 突然ではありますが、この『あゆむの雑記帳』、現在のhttp://www.ayum.jp/から引越を行います。新しいURLは以下の通り。

http://ayumnote.blogspot.jp/

 1998年7月7日のオープンから16年超、この雑記帳はさくらのレンタルサーバを使って自分のサーバスペースにおいて運営してきましたが、今後はGoogle Bloggerを利用させていただきまして、そのサービス内で運営を進めていくことにいたしました。

 このタイミングで自分でのインフラ運営から一般のサービスに乗り換えるのには色々と理由があるのですが、一番大きいのは現在ブログのフレームワークとして利用しているMovable Typeのシステムとしての陳腐化・老朽化です。現在利用しているバージョンがMovable Type 3.171-ja。このバージョンだと今ネットワークに跋扈しているスパムコメントやトラックバックを防ぐことができず、放っておくとすぐにブログ記事がスパムで埋まってしまうのです。業を煮やしてここ1年以上はコメントやトラックバックも閉鎖して対応してきましたが、そうすると今度は当然ながら読んでくれた方からのフィードバックも全く受け取ることができない。毎回反応が得られることは最初から期待はしていないにせよ、いくら書いてもまったく反応が返ってこないというのはまた記事を書くモチベーションを無くすものです。その点Google Bloggerのサービスならスパム対策は基本システムに任せておけばいいので、安心してコメント機能を利用することができます。

 Movable Typeもバージョンアップすればいいのですが、3から4に変わった段階でデザインのテンプレートの仕様が結構変わってしまっていて、結構ゴリゴリとカスタマイズを入れた『あゆむの雑記帳』のデザインはそのまま移行ができなかったんですよね。で、デザインに対する情熱が比較的低く、その面倒な移行作業を行う気力を持てない自分は「いつかバージョンアップしなきゃな」と思いつつもここまで来てしまったのです。さらにはさくらのレンタルサーバで利用しているMySQLまでバージョンが古くなってさくらの運営からサポート期限切れの連絡が来てしまう有様。これはもう限界だなと、自分でのインフラ運営を諦めることにいたしました。

 Movale TypeからGoogle Bloggerへは一応データ移行の手段があるので、過去記事といただいたコメントは可能な限り新しい雑記帳に移してあります。デザインはGoogle君が用意してくれたものほとんどそのままですが、まぁそこそこいい感じだし、ま、いっかみたいな…。こちらも簡単に変えられるので、もしかしたら今後突然変えるかもわかりません。

 このayum.jpのドメインは当面移行せずにこのまま残しておくので、旧URLも相当期間生きる予定ではありますが、とりあえず本日をもってこちらayum.jpの更新は終了させていただきまして、今後はhttp://ayumnote.blogspot.jp/の方にて『あゆむの雑記帳』は続けていきたいと思います。訪れてくださる皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

2014年11月25日火曜日

モンゴル旅行記-4

  テレルジでの長い夜の翌日は、再びウランバートルに戻ります。この日はモンゴルでは珍しいという雨模様の天気で、草原にも雲のように濃い霧が立ち込めていました。霧のモンゴルというのもなかなか珍しいそう。青空の爽やかさ、解放感とは違いますが、そう考えるとこの霧の景色もこれはこれでまた味があるのはないかと思えてきます。そんな文字通り靄に包まれた景色の中、テレルジのツーリストキャンプからウランバートルに戻る途中に立ち寄ったのがこちら、亀岩。なるほど、亀岩です。説明の必要がないくらい亀岩です。ただそれだけの名物なのですが、あれは確かに亀岩でした。

 そしてまた、3時間弱程度バスに揺られながらウランバートルへと戻っていきます。途中ガソリンスタンドで衝立だけのモンゴリアン・ぼっとん便所を体験してみたり、見事に渋滞にはまったりしながら次の目的地である日本人墓地を目指します。


 モンゴルに日本人墓地があるとは、実は知らない人も多いのではないでしょうか。かくいう自分も正直申しますと、ノモンハン事件のことは概略程度に知っていても、そこで捕虜となり抑留された日本人とその墓地についてはまったく知らなかったのが正直というところです。

 ノモンハン事件は大雑把にいえば1939年に当時大日本帝国として満州を治めていた日本とモンゴルの国境における接触から、当時モンゴルの後ろ盾となっていたソ連を含めた国境際の争いになった、比較的短期間ながら、しかし確かに戦闘を伴った"戦争"です。きっかけは国境際の関東軍とモンゴル軍の偶発的な遭遇・交戦(と言われてはいるけれど真相は今のところ闇)ですが、時はまさに第二次世界大戦開戦前夜、当時の日本の状況を考えるとやはりモンゴルまで満州の領土を拡大・侵略しようという思惑は少なからずあったことでしょう。この1年に満たない戦争に満州(日本)は敗れ、そこで捕虜となった日本兵は抑留・強制労働という運命を辿ります。その数は数十人と言う人もいれば3000人という説もありますが、それらの捕虜となった日本兵は再び祖国の地を踏むことなく、モンゴルに命を散らせることになりました。写真がその日本人墓地。実際の献花台というか、祈祷台はこの上なのですが、この円盤には矢印で「日本はこちら」と方向が示してあります。日本に、帰りたかったことだろうと思います。その遂げられなかった思いの辛さは、自分にはわかるとはとても言えませんが、そう、やはり、言葉にするのならば無念だったことだろうと思います。だからこそ、そうした思いを後世がしないために戦争は起こしてはならないのだと改めて痛感しました。

 余談ながらこの日本人墓地、現日本国首相であられる安部氏の献花はキッチリとしてありました。うん、多くは語りませんがこういう部分はしっかりしてるんだなと。多くは語りませんが。

そしてモンゴルで驚いたことといえば、その交通マナーにひどくビックリしました。何が凄いってその道路横断。歩行者が信号のない道路を渡る時、日本であれば手前側車線も向こう側の車線も車が来なくなったタイミングを見計らって一気に道路を渡るのが普通かと思いますが、モンゴルでは違います。とりあえず手前側が空いたらまず中央線まで渡ってしまうのです。そして向こう側の車線が空いたら中央線から向こう側へ。この道路横断方法を、自分は勝手に「モンゴリアン道路横断」と名付けたわけですが、この横断方法が一般的なためにモンゴルの道路の中央線にはとにかく人がたくさん立ってます。ウランバートルも結構車社会で、道路にはたくさんの車がビュンビュン走ってるのにその混雑した道路の中央線にはまた歩行者がたくさんいるわけです。日本の感覚で言えばなかなかにデンジャラス。でもそれがモンゴルでは普通。これは是非一度やってみようと、自分も自由時間に散歩してちょっとやってみました。中央線で立ち止まるモンゴリアン道路横断。うん、おっかなかったです…。そして車もまた走りながら物凄い狭い隙間に容赦なく突っ込んでくるんですよね。あれでよく事故らないなと思ってしまいますが、実際のところ滞在中に数回事故も見たのでやっぱり事故ってはいるのでしょう。路駐だらけの香港と比べると駐車には余裕があるようですが、走っている時の危険度は圧倒的にモンゴル危ないです。正直自分はここで車は運転したくないなと思いましたとさ。

そんな楽しかったモンゴルの旅も当然終わりが訪れます。お土産を買うために立ち寄った国営の商業施設ノミンデパートではチンギス・ハン・ウォッカと、写真の民族楽器、ドンブラを買ってきました。馬頭琴を買うかこのドンブラにするか凄く迷った、というかそもそも楽器を買って帰るか凄く迷ったのですが、最後は伯父の「買いたいものを買った方がいいよ」との一言でこのドンブラの購入を決意。帰りの飛行機でずっと大事に抱えて日本まで持ち帰ってきました。カザフ族のギターだというこのドンブラ。調弦もよくわからないのでその場ではとりあえずギターの3、4弦と同じチューニングに合わせて、ちょろちょろと道すがら弾いたりしてご機嫌になってました。弾いてよし、飾ってよし、モンゴルといえば馬頭琴というイメージのところに敢えてのこのドンブラ。お気に入りです。家に着いたら妻が驚くかなとワクワクしてましたが、「てっきり馬頭琴買ってくると思ってたけどまた変な楽器を…」くらいのノリで、楽器を持ちかえってくること自体は想定の範囲内だったところがさすが我が妻です。

 初めて訪れたモンゴル。行く前は正直「こんな機会でもなければ行かないし」程度の気持ちであまり期待値は高くなかったのですが、実際にいってみたら実に素晴らしいところでした。そのモンゴルの伝統と旧ソ連がミクスチャーされた街並みや文化、日本の生活とはまったく違った在り方で暮らす人々の姿、そして雄大な大自然。どれ一つ取って見ても新鮮で、これまでの価値観を覆すほどのインパクトがあって。モンゴルに滞在したのは実質3日ほどだったわけですが、本当にいい体験をさせてもらいました。できればまた行きたいものです。子供らも、いつか連れていって一緒にあの大自然を体験させてあげたいなと思いましたよ。

2014年11月24日月曜日

モンゴル旅行記-3

 大分間が開いてしまいまいたモンゴル旅行記、お話はいよいよこの旅で仕事としてではなく人生経験として最も楽しかった時間、テレルジでの午後に移っていきます。この日の午後はテレルジのツーリストキャンプに到着後、現地の遊牧民の家庭訪問を行いお話を聞き、その後乗馬体験、そして夕食という予定。2班に分かれ、それぞれのスケジュールをこなしていきます。

 自分の班はまずモンゴルの遊牧民の家庭訪問。これはもう実際に遊牧で暮らしている方のゲルに訪問して直接話をおうかがいするという貴重な体験でした。例えばゲル一つとってもツーリストキャンプのきれいにスッキリ片づけられたものでなく、テレビや毛布等がそこら辺に出ている生活感が溢れるもの。そこでもうお馴染みになってきたモンゴルのお菓子等振る舞われながら、先方のお話を聞いたりこちらから質問したり。印象的だったのは、「自分も若い頃はウランバートルで働いていたが、親が早くになくなってしまいこちらに戻ってきて遊牧民を継いだ」という話。何と言うか、その継ぐ継がないのノリが日本の農家と似たところあるなと思ったのです。というか、ああ、遊牧民って「継ぐ」ものなのかと。遊牧民は自然とそのまま遊牧民になるのでなく、この現代ではやはり若いのは都会に出て就職したりする選択肢も当然あって、その中で継ぐか継がないか、そういった家庭の葛藤があるのは、やはり日本の農家もモンゴルの遊牧民も変わらないのだなと、そう思ったわけです。歴史ある古い職業、生き方は、どうしても現代という時代と交錯していく。どの国でも、きっと難しい問題なのでしょう。

 ところで、自分たちが遊牧民の家庭におうかがいした時はちょうどそのゲルの住人の方の親戚たちがウランバートルから遊びに来ていたそうで、ゲルの外では10人を超える大人数、それも皆若くてTシャツとか着てるような都会の人達が、輪になって座って団欒をしていました。そして親戚が集まるというので、左の写真のようなモンゴル料理を作ってこれから食べるところだというのです。これはモンゴルでも特別な時にしか作らない料理だそうで、羊肉に少々の野菜を入れて、少しくらい岩塩か何かで味付けしてあるのかな?、それを熱した石を中に入れて石焼きにするという、実にワイルドな料理です。折角来たのだから一緒に食べていけという家主のお言葉に甘えて、ちょうどできたてのこの料理をいただいてきました。羊肉は脂ギトギトで、持つともう手が火傷するくらい熱くて。でもこれがまたホントに、素晴らしく美味しいのです。羊肉の独特の匂いも全然なく、脂っぽくて胸が悪くなるかと言えば全然そんなこともなく、柔らかくてジューシーで肉の旨みがダイレクトにワイルドに伝わってくる。こんなに美味しい羊肉を食べたのは初めてでした。真面目にちょっと感動したくらい。この時の羊肉があまりに美味しかったので、帰国後ふとした機会に羊肉を食べてみたのですが、固いし臭みもあるし、あまり美味しくありませんでした…。何が違うんでしょうかね。品種か環境か鮮度か…。あるいはこの、広大な草原と青空の下で食べるというただそれだけで、もしかしたら美味しく感じられるものなのかもしれませんが。ああ、あの料理また食べたい。

モンゴルでは子供ももちろんこの羊肉食べます。モンゴルでは立って食べる風習はないので、写真のように草原でも当然のように敷物なしで直座り。右のお父さん、実にいい味出してます。このお父さんが羊の骨の際の肉をナイフで薄いベーコンのように切って、自分に「食べるか?」とジェスチャーで差しだしてくれたのです。またその肉が分厚くてジューシーな肉と違ってカリカリとして美味しかったのです。このように現地の人達に混ざって、皆で輪になり入り乱れ、この切れ目ない草原と青空の下で同じ肉を食べる。それは素敵な経験でした。そして何と言うか、「こんな生き方もあるんだな」と思ったのです。この大きな自然と、文字通り寄り添って、最低限の電気とかは使うにしても、あくせくした現代社会とは離れた場所で異なった価値観を生きる。もちろん遊牧民もお金を得るためには遊牧を商売にしないといけないですから、日本の農家同様、様々な苦労もあるのでしょう。その部分は今回まったく見てないわけで無責任な言い方かもしれませんが、凄く自由に身軽に思えたのです。家にも土地にも縛れる農家よりも、移動可能なゲルを自宅に土地を回りながら、それこそ持ち歩ける量の家財とともに暮らす遊牧民。これは今までの自分の価値観にはないものでした。

 余談ながらもう一つ意外だったのが、遊牧民の移動距離。実際のところ現代の遊牧民はそう何十キロ何百キロと移動して回ることはなく、決まった土地、半径数キロくらいを草が生える期間を置いてローテーションで遊牧するというのが一般的だということ。なので気ままに風の吹くまま、という勝手な印象とは少々違うようです。

ツーリストキャンプに戻った後は乗馬体験。いや日本でも何回か簡単な乗馬体験はしたことありますが、正直自分の人生でモンゴルの草原で馬に乗る日が来ようとはまったく思っていませんでした。そもそも今回こんな機会でもなければ恐らく自分からはモンゴルに来ようなどという発想はなかっただろうから当然なんですけれども。これもまぁ、当然のことながら気持ちよかった。乗馬と言っても特別訓練をしてから乗るわけでもないので、速度は全然あげません。せいぜい早足程度。馬もなかなか気まぐれで、歩いていたかと思うと突然歩を止めて足もとの草をモグモグと食べ始めたりします。でもその気ままさも含めて、雨が降る直前の少しひんやりした肌を冷やす空気も、とても心地よく爽快に感じられました。いや、モンゴルで乗馬ですよ?『スーホの白い馬』の世界です。ご覧の通り自分が乗ったのは白い馬ではないですけれど、うん、いいですよね。


そして乗馬が終わり、モンゴル相撲の模擬試合を観戦した後の自由時間、自分は一人で周囲をブラブラと散歩してみました。自分たちが泊まるゲルの裏はすぐ小さな丘になっていて、その向こうは下からは見渡せないような感じになっています。どうも見てみると立ち入り禁止っぽい柵が頂上には張られているわけですが、とりあえずそこまでは行って景色を見てみたいなと、そう思ったのです。せっかく来たモンゴル。次はいつ来るかなんてわかりません。どうせなら見られる景色は見ておきたいなと、10分か15分ほど丘を一人で登って、その頂上から反対側を見た景色が左の写真です。この日は珍しく雨が降るということで、空の上には雨雲がかかっていましたが、それすら広い空を覆い尽くすということはなく、地面も雲の切れ目に光が差すのが見てとれる、広大に開けた視界。自分が立っている頭上にはこの時雨雲が来ていて曇った薄暗い空だったわけですが、遥か遠くには白い雲と青い空が広がっているのが見えるわけです。広いですね、大地は。これは壮観な眺めでした。

 この日の夕食は賑やかで、一緒に視察に来た皆さんはもちろん、現地のパートナー企業の方々も一緒にツーリストキャンプの食堂でわいわいと騒ぎます。夏のモンゴルの日暮れは遅いので、夜7時8時になっても外は全然明るいままです。そんな中、現地のパートナー企業の方々がこの日のディナーにサプライズとして用意してくれたのがモンゴルの民族音楽バンドKhusugtun(フスグトゥン)のコンサート。これが最高にカッコよかったのです。馬頭琴やドンブラといった民族楽器はもちろん、ホーミーも生で聴くことができたのです。これが凄かった。低く唸るような歌声の上に、まるで笛のような高い歌が聴こえる。最初はどこでその音が鳴ってるのかわかりませんでした。ところがよく聴くと左から2番目の馬頭琴の人、その人から歌が聴こえてくる。口から音が出るのでなく、頭の上で天に向かって高い音が伸びていくような。これは震えました。人間、こんな歌い方ができるものなのかと。低い歌と高い歌、2つの音が同時に一人の人間の全然違う場所で鳴っているのです。昔音楽の時間にホーミーの紹介があった時、ビデオで現地の方が「ホーミーは勝手に練習をするとアバラが折れる」とか語っていたのを何故か覚えているのですが、実際生で聴いてみるとなるほどあの発声の仕方なら独学でやろうとしたらアバラくらい折れるかもしれないなと。実に衝撃的でした。この動画はその日の最後のアンコール、『モンゴル』という曲です。実にカッコいい!


 そのようにして楽しい宴は続き、一旦食堂でお開きになった後も日付が変わるまでゲルに集まった人で持ち寄った酒を飲んだりして、テレルジでの夜は更けていきました。たっぷりと人生観まで変わるような、たくさんの刺激を受けた素晴らしい一日でした。

2014年7月8日火曜日

モンゴル旅行記-2

  今回のモンゴル研修、14日はお勉強というよりはモンゴル体験を目的とした一日。ウランバートルを出て、およそ80kmほど離れているというテレルジ国立公園へ向かいます。テレルジはツーリスト向け観光地となっていて、観光客向けにゲルでの宿泊等ができ、シャワーや食堂も設置された体のいいツーリスト・キャンプです。とはいえ電気が使えるのかもよくわからないし、シャワーはお湯が突然水になるなんてザラだというし、そもそも日本ですらほとんどキャンプをしたことがない自分にとって、このテレルジでの一日がどんなものになるか、行く前は旅程の中で一番楽しみにしていた半面、不安も結構あったのが正直なところです。それでも道中、ウランバートルの終端のゲートをくぐると、そこからは昨日同様どんどん景色が変わっていって、洋風のレンガ積みの家があったと思えばそれにゲルが混じってきて、本格的な草原に入ったと思ったらそこに突然工場が現れたりと、窓の外を見ているだけでまたその日本ではおよそ見られない風景にテンションが上がってきて、その小さな不安は忘却の彼方に消えていきました。

   そのようにして草原をしばらく走っていくと、突如として現れるのがこの巨大なチンギス・ハーン像。風景の中に突如脈絡なく現れる巨大な像という点で、石川は加賀温泉の慈母観世音菩薩を思い出させます。でもきれいに風景に溶け込んでるから加賀観音ほどのシュールさはないですね。広大な丘と草原、そして青空に囲まれて立つ様はまさに大チンギス・ハーン。モンゴルでは至る所にチンギス・ハーンの像やブランドがある辺り、今でも相当な信仰があるのだなと感じられます。新潟における田中角栄より、もっとブランド力ある感じでしょうか。今後はこの像の周りに騎馬兵の像をたくさん建立して並べていくそうで、お金を出せばその兵を自分の顔にすることができるとか。一体いくらくらいでできるんでしょうね?若干気になります。その他、ここでは2000トゥグルグ払うと鷲を腕に乗せてくれる商売があったりして、自分もやってきました。結構ねぇ、重いんですよ鷲。空飛ぶ鳥だから見た目の割に軽いんだろうなと思って油断してたら、案外見た目通りに重い。これもいい体験でした。

   チンギス・ハーン像を出た後、次に立ち寄ったのがこの御坊。モンゴルにチベット仏教が入ってくる以前のシャーマニズムの聖地のようなものだそうで、このように石を積み上げて青い布等で飾って祀る、日本で言うなら地蔵のような感じでしょうか。長い旅に出る際は自分の村の御坊の周りを3回回って道中の安全を祈願するのがしきたりだそうで、我々も式に則ってやってきました。まず御坊の周りにある小石を3つあらかじめ拾っておき、1回回るごとに1つ、御坊に石を投げていくそうです。3回終わると手の中の石もなくなる。そのようにして、古のモンゴルの旅人は安全を祈っていたのだとか。今回のように大勢で周囲をグルグル回ると、絵面的には若干シュールな感じになりますが、そのシュールさがまた宗教っぽくてちょっといい感じだったりもしました。

 そしていよいよテレルジ国立公園の宿泊場所、ツーリスト・キャンプに到着します。ここは本当に風光明媚なところで、空が晴れている時であれば本当に気持ちがいい。よく撮れた写真を何枚か、これもFBに上げてあります。着いてから少々自由時間もあったので、辺りをちょっと散歩してみます。寝泊まりする場所であるゲルのところはさすがに舗装された道があるのですが、そこを出るともう後はただ草原。道もなく、当てもなく、ただ気持ちいい空、風、草と土の感触を確かめながら歩いていく。なかなかそんな散歩はできないなと、旅特有の幸せな高揚感の中で思いました。道がないのがいいのです。どこを歩いてもいい。道があって、歩くべきルートが決まっていて、辿り着くべき場所がある、そんな歩き方じゃなくてもいいじゃないかと、この岩山と草の丘に囲まれた、広大な大地でぼんやりと考えました。何だか、人生にも通じそうですね。この日の天気はモンゴルにしては珍しく少し不安定で、自分が散歩をしている間でも曇ったり晴れたり忙しく空模様は変わっていきましたが、青空におもちゃみたいな白い雲がぽかーんと浮かんだ草原は、何だかその真ん中にいるだけで気分がよくなる素敵な場所でした。よく「小さなことなんかどうでもよくなる」とか言いますが、そんな感じでもなく、どうでもよくなるのでなくただただ自然と気持ちいい開放感。この風景はそんな気分にさせてくれます。


 お楽しみここで我々が宿泊するゲルは4人部屋でこのような感じでした。装飾もきれいなところですが、昼間であれば天窓から入る明りで、電機などつけなくても普通に明るい。特に生活するには支障がない程度の明りは天窓からの自然光だけで充分確保できていました。やっぱりこのゲルというものも、機能的によく考えられているんですね。このキャンプのゲルは違いますが、昨日お邪魔したトマト農家の方のゲルではソーラー発電で電気を確保していたりして、現代のゲルはさらに機能性を増している様子です。

 そしてこの後まだ、このテレルジではモンゴルの遊牧民の一般家庭を訪問し、乗馬体験をしと、モンゴルならではの刺激的な体験が続いていくわけです。