2004年2月2日月曜日
2004年1月30日金曜日
『雑記帳』が目指す場所
元々この雑記帳は、私がフリーペーパー『Toward evening』でバリバリにライターやっていた頃、それとは別の個人的な表現の場ということで始めました。ですが、時は過ぎ、いつの間にか、私の中でこのHPは少しずつ、自分でも気付かないうちにその位置付けが変わってきました。それは特に大学を卒業してからです。
大学時代は、よくも悪くもずっと夢の中にいるようなものでした。高校時代や浪人時代は、それはそれで素晴らしい時間だったのですが、大学で過ごした時間はまさに現実とは思えないくらい、あるいは現実を忘れるくらい、過ごしているその当時から「これはいつか醒めなければならない夢なんだ」と自覚できる幻のような時間でした。それは変に後ろ向きな懐古というのではなく、実際に、率直な実感としてです。このページを訪れてくれている人達には多かれ少なかれその感覚は理解していただけるのではないでしょうか。色々な物語が生まれていきました。それは、普通に考えれば大部分がいつか、夢から醒めるように自然に消えていく物語達です。卒業して皆離ればなれになって、時に押し流されていつかは消えていく物語達です。
いつの頃からか、このHPはそのいつか消えていく物語達を消さずに紡ぎつづける、そんな役割を意識するようになりました。だから、何はなくとも、以前より更新頻度は落ちたとしても、それでも運営を続けているのです。いつも来てくれなくてもいい。誰も来ない時期があってもいい。ただ、もし誰かがかつて自分がキャスティングされていた物語の続きを読みたくなったら、少なくともその一部はここにある。そんな役割を目指し始めたのです。
「こちらの方から声はかけない。普段はまったく気にしてくれなくてもいい。でも、もし昔が懐かしくなったり、何か用事を思い出したら、いつでもここに来てもいい。その時、必ずここはあるから」
そんな場所があってもいいんじゃないでしょうか。時とともにすべてが思い出に変わっていくだけでは寂しすぎる。現在形の物語を、どんなにか細くても、すべてを過去にしてしまわずに紡ぎつづける場所。かつてクレージー西の京がそうであったように、適当に目的もなく、ただ人が集まれる場所。最近流行りのBLOGとやらのように、明確な主義思想を打ち出すわけでもなく、生産性があることをしているわけでも別にない。たまに管理人は色々私見は述べるかもしれない。でも、本質はただ思い出した時に、ここを知っている人が、何となくさらっと立ち寄って、過去からつながる現在を確認できる場所。非生産的で曖昧でださくても別にいいじゃないですか。時には過去と現在をつなぐ0と1の狭間があったとしても。
2004年1月28日水曜日
2004年1月27日火曜日
永遠を乗り越えて
ゲーテの『ファウスト』の中の、あまりにも有名な一節。話のコンテクストはとりあえず見ないことにして、ただ純粋にこの台詞だけを吟味してみる。この一節に込められた、気持ちはなるほどわかる気がする。誰にでも永遠に続いてほしいと願った時間があるはずだから。でも、何だかやっぱり違和感がある。現実に、時は流れるのだから。あまり気付かれてはいないようだけど、永遠は実は一瞬と同義。流れる時は永遠でなく、切り取られた一瞬のみが永遠になる。最も手軽に手にできる永遠は写真だろう。写し込まれた一瞬は、時の流れを外れて永遠になる。
そんな永遠は望まない。現実に、時は流れるのだから。切り取られた一瞬を生き続けることなんてできないのだから。永遠を求める気持ちは、変化を肯定することのできない弱さでもある。それじゃあ前には進めない。時間がもたらす絶対的な真理が変化というものならば、それを受け入れられないままで前に進むことなんてできるわけがないのだから。
「時よ止まれ」とは言わない。それは現実から目を逸らすことになるから。時は流れる。すべては大きくも小さくも変わる。永遠を求めて時が連れた変化に置き去りにされるよりは、時のもたらす変化を信じよう。まずそこを受け入れないと、よい方向へと変化を導くこともできやしないのだから。そうして僕らは、少しずつでも前に進まなければならないのだから。
2004年1月21日水曜日
言葉が満ちるまで
確かに時は過ぎる。言葉を急ぐのにはそれなりの理由がある。だけれど焦っても仕方ないということも、またやっぱりわかっている。だから待とう。上質のウィスキーが少しずつ樽の中で熟成を進めるように、言葉が満ちて出てくるまで。それまでは、今伝えられる一番シンプルで確かなことだけを、不格好に言葉にすればいい。詩でも小説でも日記でも何でもなく、ただ確かな言葉を、不格好でも。もしかしたら、祈りとはそういったものだったのかもしれない。
2004年1月16日金曜日
心が引き込まれる音楽『ザ・ケルン・コンサート』
バーというのは静かな店でもやはり独特の喧噪がある。人が集まって喋るわけだから当然なのだが、そうなると自然流れている音楽はBGMとして後ろに下がってしまい、ジャズバーで流れているジャズですら意識的に耳を傾けていないとすぐに周囲の喧噪の一部になってしまう。4人も集まってテーブルで話しているのならなおさらだ。ところが、この『ザ・ケルン・コンサート』の最初のフレーズは、まるで周囲の音をすべてすり抜けてきたかのように、突然、だけれども自然に、耳に飛び込んできた。ジャズとしては決して多くない、伴奏なしのピアノ独奏。ゆったりと、透明に響くピアノの旋律。一瞬で耳が釘付けになった。少ない音数が互いに響き合うように始まった演奏は、時が進むにつれ自由に形を変えていき、透き通った冷たい夜の空気が匂わすような叙情性を抱えたまま、時に明るく響いてみたり、時に悲しく歌ってみたり、感情を昂らせたり鎮めたりしながら進んでいく。いい曲だな、と思った。どこかで聴いた気がするな、とも。
ウィスキーのおかわりを注文するのを口実に、マスターに曲名を聞いた。CDのジャケットを持ってきてくれたマスターからは、「曲名はないんです」という答えが返ってきた。キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』は、彼が行った完全即興のソロ・コンサートのライブ盤で、即興だから曲名があるわけではないとのこと。なるほど、CDのクレジットにも、演奏された日付と場所しか書かれていない。完全な即興。それでこれだけ印象的なフレーズが編み出せるものなのかと正直驚いた。
社販で買った『ザ・ケルン・コンサート』のCDが手元に届いたのは数日前だが、平日はさすがにゆっくりとCDを聴く時間などなかなか持てない。やっと落ち着いて聴けた。店で聴いた音楽というのは、その店の雰囲気や居合わせた人の空気といった要因がどうしても強く、改めて一人で聴いてみると店で聴いた時とは印象が変わることが少なくない。このCDはどうだろう、と少しドキドキしながらプレイヤーにかけた。だが、記憶の印象を裏切られるかもしれないという不安はまったくの杞憂だった。出だしのフレーズはやはり心に残る印象的なものだった。そしてその後の即興・変奏に至っては改めて静かにゆっくり聴くことでさらに素晴らしいものに思えてきたし、そのインプロヴィゼーションに感服せざるを得なかった。特に1曲目の最後だ。
一旦静かに落ち着いた曲の流れの中、少し間を探るようにハープを流しているかのようなチャララララ~ン、というフレーズが何度か奏でられる。そして次第にその中から少しずつ新しく美しいフレーズが生まれてきて、さらにその中から、また後ろの方でもう1つ新たなテーマの種が奏でられ始める。最初に生まれた非常に美しいフレーズが曲を神々しく盛り上げていく裏で、後から生まれた明るく生き生きとした躍動感を持ったテーマが少しずつ成長していき、いつの間にかテーマの重みが入れ替わり新しい明るいテーマがメインとなってアップテンポに盛り上がっていってクライマックスを迎える。それは、これまで聴いた中でもっとも美しい音楽の1つだった。透明で、響きの中に満ちた深い哀しみが神々しさすら感じさせる旋律の中から、新たにもう1つ、今度は明るく前に進んでいこうとするような力強い旋律が浮かんでくる。叙情だけで終わらず、希望だけに尽きず、押し付けではなく、暗がりから前へ。キース・ジャレットの演奏には、そんな心を引き込む力があった。心が引き込まれる音楽。ジャズは門外漢なので、正直ジャズがどうこうと語ることはできない。けれど、このキース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』は本当に理屈抜きで素晴らしい。音楽とはこうありたいものだという形がここにある。
2004年1月15日木曜日
『世界は終わらない』チャールズ・シミック
中には薄闇のみ。君の薄闇か 石の
薄闇か、誰にわかる? 静寂の中 君の心臓は
黒いコオロギみたいに聞こえる。
チャールズ・シミック『世界は終わらない』より