2002年4月1日月曜日

華厳の滝参拝

 さてさて、この週末、金曜日にお休みをいただいた私は栃木の山奥に心と体を癒す旅に出ていました。栃木の山奥というと「何処だ!?」って感じですが、要は奥日光です。有名どころはやはり自殺の名所華厳の滝でしょう。というか今回の目的もかつて藤村操があの「厳頭之感」を書きとめ、華厳を見ていた時の心境とはいかなるものだったのかと、自らの目で華厳を眺めてみることでありました。華厳の滝で「万有の真相は唯一言にしてつくす。曰く不可解」との言葉を残して散っていった藤村操、そして彼に続いた者達は、この滝を見て何を思ったのでしょうか。

 私が華厳の滝を見てまず思ったのは、そういった思惑や感慨とは裏腹に、実に単純かつ世俗的な一言でした。

 ・・・ああ、こりゃ死ねるわ・・・。

 中禅寺湖から流れる水が、いかつい岩壁から水煙となって自らの身をも砕きながら文字通り「叩き付けられるような」感じで透き通った深緑と青の入り交じる水面へと落ちていっているのです。流れ落ちるなんて優しげなものではなく、半ば投げやりに、そして半ば悲しげに、身を投げるようなイメージでした。そして華厳の滝本体の中段くらいにある岩棚からは、小さな滝が十数本(十二滝と呼ばれているそうなのですが十二本なのですかね?)、中央の本流を円陣で囲うように流れているのです。その様は蓮の花を切ってみてみた花弁のようでもありました。正直、思っていた程大きな滝というわけでもなかったのですが、あそこは何かが違いました。敢えて言うなら自然の叡智とでもいうのでしょうか、あるいは偶然の芸術とでもいうのでしょうか、ただ自然が自然としてそこにあるだけで、ああいった不思議な調和の取れた美しい場所ができあがるものなのかと思いましたね。華厳に比べれば正直東照宮など所詮は人の思い上がりといった印象すら受けてしまいます。『眠り猫』は非常に気持ちよさげにみえましたが。皆さんも生きている間に一度は華厳の滝へ足を運んでみることをお薦めします。

厳頭之感

悠々なる哉天襄。遼々なる哉古今。五尺の小躯を以て比大をはからむとす。ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にしてつくす。曰く”不可解”。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に厳頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

藤村操(1903/5/22)

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