2006年1月5日木曜日

遅すぎた目標とスタンス・ドット

 いつの間にか身近に凄い人物が二人もいることに気が付いた。何故気付かなかったのだろうと不思議に思うくらい近くに。その人達が身近に来たのは大きな偶然からだけれど、何はともあれ事実として今、身近に彼らはいる。

 ずっと、身近に目標となる人物がいないというのが不満だった。いつも、自分が先頭を切らなければならないのが不満だった。追いつかれまいと逃げるよりは、追いかける方がずっと性に合っている。水泳のリレーではいつもアンカーだった。そんな自分が、身近な人物の凄さに気付かずにいた。皮肉なもので、ずっとほしがっていたものは諦めた頃に当然のように手に入ったりする。二年前の私なら、きっと狂喜したことだろう。「ほら、ずっと望んでいた、どんなに背伸びをしようとも今は届かない、そんな人達がそこにいる。まずは、目指してみようじゃないか」と。これまでも、届かない人物がいなかったわけじゃない。そこまで私は優れていない。ただ、彼らの立っている位置は、私の目指す方向とは違う位置にあるように思えた。だから、興味を持たなかった。ただ今は、自分が目指した方向に、遥か遠く立つ人物がいる。

 日常に疲れた私がここにいる。二年前なら心弾んだであろう存在に、もう一つ敬意を抱けないでいる自分がいる。体の疲れか、心の疲れか、モチベーションやら向上心やらの問題か。もう一度ビジネスマンらしく、キャリアパスやら自己啓発やらに心を持っていくことはやろうと思えばできなくはないだろう。だが、素直にそうしたくもない自分もここにいる。惰性は、慣性になる。

 もう一度、刺激に触れに行くのもいい。少し心を開けば、その後はきっと大きく全てが揺れるだろう。それだけのものを持った人達が、今は身近に存在する。だが、一度心を開いたならば、次はそこから離れて行くことがきっとできなくなるだろう。だから、覚悟がいる。見極めがいる。少なくとも今の私には。立ち位置を確かめろ。目標を確かめろ。今、自分のスタンス・ドットは何処にある。それは、何処に行くべきだ。離れることを決断するなら、今は心を閉ざすべきだ。残ることを決断するなら、素直に心を開くべきだ。さぁ、見極めろ。

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