2006年11月19日日曜日

音楽の指向性と20世紀音楽

 最近、ワーグナーやマーラー、ストラヴィンスキーといった、19世紀後半~20世紀の作曲家の、比較的編成の大きな歌劇や交響曲的なものを改めて真面目に聴いてみている。実は、そんなに好きではなかったのだ。彼らの作品が好きではないというよりは、そもそもある程度以上編成の大きな音楽が好きではなかったのだ。具体的には弦と金管が両方必要になる程度の大きさの編成になると、もう毛嫌いしていた。だから自分でかける音楽は、大きな編成のものでもせいぜいバッハの管弦楽組曲か、モーツァルトのシンフォニーくらい。ベートーベンのシンフォニーは余程気分が乗っていないとかけない。そんな感じだったので、巨大な編成を必要とするワーグナーやマーラーなんて、そもそも真面目に聴こうとすら思っていなかった。例外として、ショスタコーヴィチだけは昔から好きだったのだけれど。

 そもそも、大編成の交響曲や歌劇があまり好きでなかったのには明確な理由がある。それはひとえにそれらの音楽があまりに外向きに過ぎるからだ。音楽は編成が大きくなればなるほど、当然ではあるが自分一人の中に対する指向性だけでは解決ができなくなってくる。それは指揮者に対する指向であったり、あるいは他の楽団員に対する、自分以外の音や空気に対する指向性であったり、とにかく意識のベクトルを外に向けざるをえない。自然、音楽それ自体も一個人の意識の内面に潜っていくというよりも、外に、世界に対して働きかけるような形で作用する。個人の中に潜っていくのではなく外の世界へ。大編成の曲は、もはや音楽作品自体それがそのような指向性を持ってしまうし、それを演奏する側も聴く側も、無意識のうちにそういった指向性の元に音楽を表現し、体験する。ベートーベンやワーグナーの壮大な音楽や、その他現在では退廃音楽と呼ばれている様々な作品達がナチス・ドイツに利用され、旧ソ連の共産体制の中ショスタコーヴィチの音楽が(物議を醸しながらも)政治的に利用されたことも、それらの音楽が持つ外向性を所以とするのは明らかだ。大編成の音楽は、個人に向かうのではなく世界に、社会に向かう。音楽が政治的に利用されたから嫌いだと言っているのではない。単純に、私はそういった外向性を音楽には求めていない。それだけのことだ。

 そもそも音楽は、元々は祈りから始まった。原初の祈りが宗教行為だったとして、その祈りは個人的なものだったのか、それとも社会的なものだったのかというのは諸説あるところではあるが、明らかなこととして、原初の祈りは人や人が織りなす社会に対してではなく、人の力が及ばない自然や超自然に対して行われていた。その超自然が形を変えると神となる。その祈りのバリエーションの一つとして始まった音楽も、元々は言ってしまえば神に対して捧げられるものであった。だが、それは時代とともに次第に人の立つ地平にまで降りてくる。いわゆるアーリー・バロックの時代に既にその傾向は見られる。その当時の西洋音楽はほとんどが教会で演奏される宗教音楽の範疇にあった。それでも少しずつ、楽器の技法を駆使するための楽曲や、作曲技法のための楽曲、そして直接的に人に対して捧げられる音楽が出始めてくる。ただ、この頃はそれでもまだ、音楽は個人のものだった。神を存在理由とする音楽は、最終的には内省へ向かう。

 音楽が本格的に社会的になっていくのは、やはりベートーベン以降だろう。彼の交響曲第3番『英雄』は、その意味で音楽史的にも音楽精神史的にも、非常に大きな転機となったことは間違いない。フランス革命に欧州中が動揺する中、神に対してでも貴族に対してでもなく、初めて明確に政治的な意図を持って"民衆"のために書かれ、そして受け入れられた音楽。ここに至って本格的に、音楽は神から人へとその対象を変える。そして今に至るまで、音楽の捧げられる対象は人から神へは返っていない。私の考えではその後、シェーンベルクやベルク等の新ウィーン学派が調性や旋律の解体を始めた辺りから今度は無意識から意識へという音楽作用の対象のシフトが行われていくのだが、そこまで語り始めると長くなりすぎるので今は口をつぐむ。

 そのように、外向的な傾向を持つ音楽を私は好まなかった。どこまでも、奥深く自身の意識・無意識の深みにはまっていけるような、そんな内向的な音楽ばかりを好んでいた。また機会があればこれについても語るが、そう考えると私自身のバロックと現代曲という極端にアンバランスな音楽傾向も一応理論的な説明がつく。逆に言えば、ベートーベン以降から第二次世界大戦以後数十年の音楽は、ギターやピアノの独奏、弦楽四重奏等の一部の例外を除けば基本的に私自身が避けて通ってきた音楽になる。最近は、そういった音楽も避ける前にまず聴いてみようと思い直したわけだ。

 きっかけは、『20世紀音楽 クラッシックの運命』という本を読んだことだ。音楽は、特に外向的な性質を持つ19世紀後半~20世紀半ばまでのものであれば尚更、歴史とも大きな関わりを持つ。音楽を考えていくことは歴史を、人が辿ってきた精神史を考えることにもつながる。そこに興味を持った。

 私の音楽に対する基本的な考え方は、歴史や背景等は音楽を聴く際には極力意識しないことだ。ベートーベンはフランス革命の動乱の中、自身の難聴の苦悩の中で『英雄』を書いたかもしれない。ショスタコーヴィチは当局の厳しい目をかわすために、敢えて交響曲第五番をアイロニカルに書いたのかもしれない(彼が後に語ったところによれば、あの最終楽章のフィナーレは「勝利の讃歌などではなく、"ほら、喜べ!"と強制された凱歌」だそうだ)。スペイン内乱の中で曲を書き続け、最後はフランコ派に処刑されてしまったアントニオ・ホセは、どのような心境であの『ギター・ソナタ』を書き綴ったのか。

 ただ、そんなものは音楽それ自体には関係がない。音楽は、それが生み出されたコンテクストとは関係なく、ただそれ自身無垢に人の心を揺さぶる力を持っていなければならないというのが私の考えだ。だから、曲を聴く時には音楽それ自体に集中し、そのような背景は考えないようにする。そういった聴き方をしてきた。音楽は、作曲者や演奏者は理論や歴史・背景等を学び、糧とする義務があるが、聴く側にとっては逆にそういったものは音楽自身に対する印象のノイズとなって働くというのが私の考えだ。作曲者や演奏者が理論や歴史背景等を学ばないのはただの怠慢で、そこで得た知識的なものも含めてそれを如何に音楽に組み込んでいくかが送り手としての音楽家の責務となる。逆に、受け手は(少々残酷に過ぎるようだが)そういった音楽自身以外のコンテクストは排除した上で、純粋に音楽を享受することで音楽それ自身の価値を体験しなければならない。そう考えていた。大雑把にまとめると、音楽の送り手としての作曲者や演奏者は、知らなければならない。音楽の受け手としての聴衆は逆に、知ってはいけない。それによって、送り出された音楽がそれ自身の力によって受け手にどのように解釈されるか、どのように影響を与えるかといった音楽それ自身の力が試されるのだ。ただ、敢えてそこまで音楽に対して純粋さを求めるのでなくても、歴史背景や音楽史の流れを意識しながら聴いてみるのも、それはそれで面白いのかもしれないと思い始めた。例えそれが時に音楽に対する色眼鏡として働くことがあるとしても。その色眼鏡を作り出す力もまたある意味では音楽の力なのかもしれない。

 そう思いながら、ワーグナーやマーラー、ストラヴィンスキーといった、19世紀後半~20世紀の作曲家の、比較的編成の大きな歌劇や交響曲的なものを改めて真面目に聴いてみている。マーラーの交響曲第二番『復活』など、実に劇的で壮大で、美しい。やはり、喰わず嫌いはしないにこしたことはないものだ。


3 件のコメント:

  1. あの、あのね、JSBとかでも、コラールは充分、民衆向けだと思うの(プロテスタントがそーゆー宗教だから)。
    ウィーン移住後のWAMも結構、民衆向けだと思うの(商売相手にしてたブルジョア層が、まだ貴族化してないから)。
    ・・・と書いてて、ayumさんは、あーゆーキャッチーなポップ・ミュージックに興味なさそうだ、と思い直した。

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  2. 追伸:
    編成規模と指向性については、ニワトリ/タマゴな話ですけども、個人的には
    封建制の崩壊 > 高級文化の大衆解放 > 芸術のマスプロダクト化 > (電子機器の不在) > 劇場の大型化 > 大編成化 > 個の不在、というのもあると思われ。

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  3. まぁ確かにBachもいわゆる一連の世俗カンタータなんかは直接的に民衆のために書かれてるね。
    Bach以前のアーリー・バロックの頃から既に音楽の民衆化は始まりつつあったと思うよ。
    ただ、本格的に音楽が(民衆ではなく)人の立ち位置まで降りてきたのはやはり『Eroica』以降だと思う。
    それまでの音楽は演奏される際に結局最終的に超自然や神の世界にベクトルが返る。
    作曲者の立場ではなく、聴衆の立場でもなく、演奏者の立場から見た際に。
    同じように、編成と指向性についてもmordredは音楽の外からの聴き手、
    あるいは観察者の立場から見ているけど、
    こちらはあくまで演奏者側から。
    そう見ると、独奏より大きい編成ではどうしても
    演奏する際の指向性は大きさに比例して外へ向かざるを得ない。
    独奏と合奏ではエネルギーの向かう場所が全然違う。
    大きく言うと自分の中か、外か。
    エネルギーが外に出た先の流れ方は時代時代で色々変わるにしても。
    その大規模編成の際に演奏者が指向せざるを得ない外向性が、
    やはり出来上がる音楽にも前提としての外向性を与えてしまうのが好きじゃなかったんだな、これが。

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