2000年2月20日日曜日

暗いニュースのその裏に

 最近は妙に時間があるせいもあってニュースや新聞をよく見るのですが、どうも明るいニュースってないですね。保険金殺人って、愛人と共に夫と自らの次男を殺害した『黒い家』現実版のような話もあれば、ここ京都での小二男児殺害事件容疑者自殺事件やら(漢字多い・・・)、我が地元新潟でのF子ちゃん九年間監禁事件とそれに関する新潟県警がついた嘘やら、子供の頭の傷をホチキスで止めて止血しようとして幼児虐待で捕まった親とか、省庁ホームページのクラック事件だの、ZD-NETやC-NETのクラック事件だの、原発の生コンに水を混ぜるは、チェチェンじゃロシアのヘリが墜落して兵士が15人死んだとか・・・。う~ん、ダークですな。今テレビではあの『ドクター・キリコ事件』の再検証みたいなことやってます。ネットでは自殺系のホームページが静かに流行っているようです。いわゆる電脳オタクが好むようなアングラサイトといったレベルを超えたシュ-ルさがあるようですね。自殺系のホ-ムペ-ジはいくつか見つけましたが紹介するのはやめておきます。もう世の中散々のようにも思えますね。たまりません。まぁ世紀末と言ってしまえばそれまでなのかもわかりませんが。そういや森永グリコ事件も時効を迎えましたね。やれやれです。モヒカンの筋肉マッチョが横行するというようなことこそありませんが、なんか実際問題『北斗の拳』の世界に近付いていってるようじゃありませんか。大した世の中になったものです。今流れてるニュースでも新たに2件の殺人事件が伝えられていますし、人死にももう珍しいものではなくなってしまったような感覚すら覚えます。戦時中ならともかくねぇ・・・。

 しかし世の中の精神の荒みを感じますね。使い古された言い回しなのかもわかりませんが。バブル崩壊後の当時成人だった人の心の軋轢やら、現在の社会の中で自分を確認できるものを見失ってしまった人の悲痛な叫びであるような気もします。
前に神戸の生首事件の時に発表したエッセイ『0と1の歪み』で私は「彼らを見て“異常者”と決め付けることなんて誰にもできない。健全な精神を持っていたが故に自分自身の心を狂気から救おうとしてとった行動、それがたまたま世間に適応しなかっただけ・・・。」と書きましたが、今もそれと同じような印象を受けますし、あるいはいわゆる“健全”な方向へ精神のエネルギーを導いてくれるメルクマークがこの世の中で見えにくくなってきて、路頭に迷った精神が変調を来した時に超えてはならない一線を超えてしまう、そんな気もします。新潟の監禁事件で、犯人は「あの頃は最高だった。二人だけのあの時間に戻りたい」と反省の色なしの供述をしているようです。私にはその非人間的な台詞でさえ自分の居場所を求める彷徨えるアイデンティティの具象化であるように思えます。もちろん犯人達を許せるかとか、そういったことはまたそれとは別次元の問題なのですが、彼らが犯行に走っていった精神的な背景や、その精神的背景を生み出した社会的背景を考えると切なくもなります。社会が悪いとか、そういった単純な言葉ですべてが片付くとも思いませんが、少なくとも個人的要因以前に社会的な背景の荒廃が隠れているのでしょう。これからもこういった事件は減らないと思います。むしろ増え続けていくでしょう。私は何もできないでしょうが、せめて事件によって表に出た事実だけではなく、事実の裏に隠れた原因というか背景、そしてその背景が生まれてくるそのまた背景を見ていくことで、悲劇がもたらした警鐘を読み取っていきたいと思っています。世の大半の人は事実のみに目が行って、その背景には興味を示しません。犯人の生い立ちやら性格やらあるいは精神的な失調の様子なんかは背景ではないのです。何故それらが発生したかを見るのが背景であり、悲しいこととはいえ事件の犯人達が残した本当のメッセージを読み取るにはその背景を読み取っていくしかないと思います。それがたとえどんなに主観的なものであっても、その解釈がたとえ間違っていたとしても、その背景を読もうとする行為が無意味に無駄に終わってしまうことはないでしょう。その悲しい行為がもたらした結果が伝える現在の歪みが私達の中に残っていく限りは。ただ事実のみを見て怒りを覚えたり嘆いてみたりするだけよりは。

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